京極堂シリーズ小話まとめ1

京極堂シリーズおよび百器徒然袋のキャラクターでオールキャラギャグ詰め合わせです。ネタバレとか容赦しない感じなのとブロマンス気味です。六万文字くらいでちょい長い。

水切り天草

雲がゆったりと青空の上を滑っていく。私はその下でゆっくりと坂道を登っていた。夏の暑さで坂の頂には蜉蝣が腸の繊毛のように揺れていた。
坂を登り始めて七合目あたりに着いた頃、眩暈がした。膝に手を着き、息を吐く。
額に手を翳すと湿った髪が手の甲にへばり付いた。少し遮られた射すような日光は今だ私の黒い髪に降り注ぎ、髪はひたすらに熱を篭らせていた。額の汗がひとすじ顎を伝い地面を濡らした。濡れた箇所を見ていると、身体が地面に引き込まれた。
違う、そのまま身体が傾いていったのだ。地面と同化する--そう思ったその一瞬である。何か冷たい空気に包まれた。
「き、京極堂・・・」
私は倒れた瞬間に調度良く京極堂の腕に支えられたようだった。礼を云い彼から離れようとして支えられている腕に手を沿えたのだが、寧ろ私の身体は傾いていき、ついには地面と同化した。
手を出したのならばもう少ししっかりと支えていてくれと云いたかったのだが、朦朧とした意識にその言葉は沈んでいった。
私が意識を取り戻すと、どこかの天井が目の前に広がっていた。私はどこに居るのだろう。そういえば京極堂に行くところだった。視線を少しずらすとそこには友人が面倒臭そうにこちらをのぞいていた。
目の前が薄暗く遮られ黒い着物があると認識したその時、額にひんやりとしたものを感じた。濡らした手ぬぐいだった。汗で気分の悪かった額が心地良い。薄目で京極堂を見ると陰気臭い色味の浴衣に
--割烹着を着ていた。
季節はもう夏である。だから六月までの一重は脱ぎ浴衣でも多いに結構だ。しかしその割烹着という衣装(コスチューム)は、普段死神のような、と形容されるこの男にはどうにもおかしかった。
妙な顔をして見ている私に気が付いたのか、京極堂はこちらになにか小鉢を差し出しながら云った。
「この割烹着は着物が汚れない為だ。ようするに、人の家にくる予定で行き倒れた客人の為に僕はわざわざ甘味を用意してたのだよ。関口君も、心太に黒蜜で良いだろう」
「あ、あぁ。」
吃りながらも小鉢を受け取ると、中には大量の黒蜜に沈んでいる心太が入っていた。
それにしても、この黒蜜はたぷたぷとしている。かけられたというよりも黒蜜に付け込んだという表現の方が正しい気がする。甘いものは嫌いではないし、箸で心太を摘みだした。口の中には甘酸っぱい心太と黒蜜の味が広がった。だが、どこか味が薄いのだ。
「妙だな」
京極堂もその味の薄さを疑問に思ったらしい、首を傾げ小鉢の中を箸で弄っている。
「京極堂、どうもこの心太は味が変わっているような気がする。なにか変わったものでも入れたのか」
「いいや、特に変わったものは入れていない筈だ」
京極堂は自らの信念『不思議なことはない』というものを忘れて--ううん、不思議だと云った。
そこで私は去年のことを思いだした。去年の調度今日のように暑い日だった。
確か、榎さんの所にいった時だ。その時も今日のように茹蛸のようになりながらも榎さんの所で心太を御馳走になったのだった。来ていた鳥口が心太を用意してくれたのだが、出されたそれは、今日の心太のようにおかしな味だった。
『うへぇ、水切りするの忘れていたみたいですねぇ。まだ食べてないですよね、あ、もう食べてしまってましたか、すみません。もう面倒臭いんでそのままでも良いですよね』
--水切り--
「水切りだ!水切りだよ京極堂!水切りをしていなかったんじゃないか!?」
「なんだ関口君、榎木津みたいな物言いは止めてくれ。あぁ、そうだ!水切り。君が倒れたりするからすっかり忘れていたよ。一寸待ってくれ、今水切りを」
しかし京極堂は小鉢を持ったまま眉を寄せた。
「関口君、この心太はどう『蜜切り』すれば良いかな」
同じく私は京極堂のように眉を寄せた。不可逆的心太だ。
私達は暫く沈黙していた。沈黙を破るようにとうとう京極堂が口を開けた。
「もう面倒臭い。折角来てくれた関口君には悪いがこのまま食そう。」
私の友人共は揃いも揃って変人で、どこか似ている。20080726

線香花火
今日はこの辺りで祭があるらしい。私はそんな町を眺めながら今日も京極堂へとやってきた。
今日は何故ここへ来たかというと榎木津礼二郎主催の行事があるからである。京極堂ではなく薔薇十字探偵社でやるのが普通ではないか、と思うのだが主催者自体が普通ではないので特に気にしないことにした。
いつもの町並みに鮮やかな幾つもの色彩。藍色の空に桃色や橙色の浴衣姿がゆったりと溶け込んでいる。飴などを持って歩く子供に擦れ違った。きっとこんな時間が好きなのだろう。榎木津が今日という日にこの場所を選んだのか分かった気がした。
私自身も今日は浴衣である。妻は京極堂の細君と祭に行くとかで浴衣を着ていたそのついでに着付けられてしまった。だから今日は普段楽で着ている開襟ではなく、藻のような色をした浴衣なのだ。これは京極堂たちに藻のような色だと云われるのだろう。
祭客の集団を抜けて道を進んで行くと少々薄暗い坂道に辿り着く。長い坂道を登りようやく京極堂の入口を潜るといつもの二人はもう来ていた。二人とも今日は祭の格好らしく浴衣を着ていた。
京極堂は相も変わらず真っ黒い絣柄だったが、榎木津はどこで見つけたのかと聞きたくなるほど派手な、女物のような赤い矢絣に大きな花柄の浴衣だった。
「やぁ」
「猿君、今日も来るのが遅いな。僕はもう待ちくたびれて、羊羹を食べながら水羊羹まで食べてしまったよ。まったくどうしてくれるんだい、猿君は学生時代から祭の日は到着に遅れる。そんなに浴衣とやらは動きにくいのか?それにしてもその浴衣は苔のような色だな」
ぶつぶつと一人話し続けている榎木津を放置して私は手土産の冷酒を取出した。
「関口君にしては気が利くな。今日は花火をするらしいよ。君はぼんやりしているから、浴衣の端を焦がさないようにだけは気をつけろよ」
「さァ花火を始めようッ!僕が千本も花火を買ってきてやったんだ。一人333.3本。だ!」
そういって榎木津は花火の入った袋を楽しそうに高々と掲げた。京極堂はその隣で真っ赤な蝋燭に火をつけている。その様子は彼を知らないものから見れば、まるでこれから百物語でも始めるところに見えるだろう--そんなときだった。
嗚呼ッと素っ頓狂に榎木津が叫び声をあげた。ぼんやりと炎を見つめていた私は驚き、京極堂も同様に驚いたようで蝋燭の火を消してしまった。
「しまった!」
「何したんだ、榎木津」
榎木津は人形のような顔を真っ青にして袋の中身を見つめていた。袋に花火が入っていなかったのだろうか。それとも怪談のように死体でも入っていたのだろうか。ひょいと袋を覗くとそこには死体なんて入ってなかった。むしろ大量の花火がみつしりと入っていた。
しかしこれを見た瞬間なぜ榎木津が悲鳴をあげたのかは理解した。
すべて、線香花火だったのだ。
「マスカマバカオロカ!」
どうやら榎木津は益田に花火を買ってくるように頼んだらしい。--はした金を渡し、炎天下の中花火を千本買ってこいと。恐らく益田はそれに対する復讐の念でこの花火を買ったのではないのだろう。本当にその金の範囲で買える千本の花火はこれだったのだとうかがえる。
その憐れな益田に同情をしながらの花火大会は始まった。赤い和蝋燭のあかりに浮かぶのは死神のような男、自分でいうのも厭だが鬱の気の抜けない三文文士に、頭のおかしな探偵。これほど混沌とした花火大会なんてないだろう。
小さな火花が足元で花を咲かせては小さく散って逝く。じじじっと小さく呻きをあげている線香花火とゆうらり揺らめく和蝋燭が百物語の雰囲気を作りあげている。ついに京極堂が口を開いた。
「そういえば夏といえばこんな話があるな--」
妖怪百物語の予感がした。20080727

ヒステリー

「関口君、」
「・・・」
名を読んだ相手は部屋のすみの薄暗の中から、物言いたげに中禅寺の方を眺めていた。
「おい、関口!」
面倒な奴だと思いながらも中禅寺はもう一度関口を呼んだ。しかしいつまでたってもその呼びかけに対する返事はない。あう、だの呻きが聞こえてきて漸く中禅寺は理解した。
嗚呼、きっと関口君はまた失語症だ。
「また、ヒステリーかい。君も御苦労だな」
ヒステリー、世間一般の解釈では女性が癇癪を起こして金切り声をあげたりするような状態のイメージがあるが、本来、心理学的には心因性の身体の或一部に欠陥が生じるモノである。
その症状は十人十色で足が急に動かなくなったり、失明したわけではないのに目が見えなくなったりする。その原因は心にあると言われていて、実際に医者にかかっても目には異常はないし、脳もいたって正常なのだ。
その目が見えなくなるだとか云う欠陥が、関口の場合、話すという機能に現れたのだ。
「それにしても、何か厭なことがあるたびこれでは関口君も大変だろう。心が繊細過ぎるというものも些か、面倒臭いものだ」
「・・・」
関口は身体を横たえた。どすという音に続き、鈍いごとりという音が響いた。また関口の呻きが聞こえた。どうやら中禅寺が放置してあった白い骨壷に頭をぶつけたらしい。
骨壷も横になり、中に入っていた仏舎利否干菓子は床に散らばった。200807**

夏祭り

帯は苦しいな--
中禅寺敦子はそう思った。履き慣れない下駄に歩きなれない浴衣。兄の秋彦と違い洋服を普段着にしている敦子にしてみれば、本来夕涼みの恰好である浴衣でさえも少々息苦しさを感じている。
華奢過ぎる身体に補正の下着と手ぬぐいを巻き付けて、巻き慣れない(半幅ではあるが)帯を巻いて、歩き慣れない下駄を履いている。
何故彼女にしては動き難い恰好をしているのかというと、今日は年に一度の夏祭りなのである。
もう少女の年齢ではないものの、敦子だって夏祭りと聞けば胸は踊り、浴衣でひらりひらりと外を歩きたくなるのだ。因みに夏祭りはというと、ちょうど兄の秋彦の店、京極堂のすぐ側で行われる。
兄の秋彦はというと夏祭りには来ないものの、今夜は学生時代の友人達と花火を楽しむらしい。尤も、兄の友人の探偵、榎木津が主催らしいと聞いた時に敦子もその花火に参加したいと思ったのだが(彼の奇人っぷりは敦子の記者精神と強い興味をそそるらしい)、友人水入らず、敦子の参加する幕ではないと遠慮をした。
そして今に至る。
今日はよく一緒にいる鳥口もいなかった故、一人だが敦子はどこか浮かれていた。
---花文庫が、背中で揺れる。
黒地の浴衣に蝶々が揺れて艶やかだ。赤い帯とそれに合わせた薄桃の帯締めも、なにもかもが美しく夏の夜の藍に溶けた。
「---。」
夏祭りの雰囲気に少し浸かりほうけていた敦子の横を関口が通っていった。どこか人を見ているのか背景を見ているのか、それても人も背景として見ているのか。彼もまた、夏の夜という雰囲気に若干酔った様子で敦子には気付くことなく通り過ぎて行った。
関口は深緑色の浴衣を来て何か紙袋を小脇に抱えていた。擦れ違った際に話し掛けようかと思った敦子だったが話し掛けなかった。
--坂の方を振り返ると頂上の古本屋は薄く明かりが点っていた。20080802

アクリル

森が風に煽られてざわめく。
蝉が喚く。
今日も床に伏せっている私はその蝉の鳴き声で今という時間、空気、夏を知る。
--凛。風鈴が鳴いた。
---凛。思い出すのは夏の日。
外はかんかんに熱っせられた太陽光が降り注ぐ。歩くにしても暑く、座っていても暑かった。
しかし、こんな炎天下の中でも関口、中禅寺の二人は学校に向かい歩いていた。
「なんだってこんなに暑い日に君は外に出掛けたがるかな。普段は部屋から一歩もでないで本の虫だというのに、晴れた、暑い日にばかり出掛けたがる。僕には理解できないね」
ぜいぜいと息苦しそうに関口は中禅寺を睨んだ。もうすっかり茹だってしまっている関口を一瞥すると中禅寺は口を開いた。関口はその横顔を見て少し後悔した。
もともとの顔のパーツ、表情こそは変わらないが若干ばかりの底意地の悪い色の滲み出た中禅寺。これはこれから始まる長い中禅寺のお説教(演説)を暗示していた。
「なんで僕が晴れた暑い日に出掛けたがるか--それはね、関口君。僕が読書を愛しているのは知っているだろ。ようするに、要はそこなんだよ。僕は晴れた日も本を読むけれど雨の日は尚更本を読む。ここで本を読み終えるが本を返しに行くには余りに天候がよろしくないだろ。書物は湿気に弱いからね。だから僕は次の天候の良い日を見計らって本を返しに行くのだよ。そしてそれがたまたま、いいや、低気圧の去った次の高気圧の日になることが多いというだけのことさ」
「へえ、」
関口は暑さにやられたのか、間抜けな声で返事をした。中禅寺も暑いらしく、けだるそうに云った。「それにしても、暑い」
-凛。
久しぶりに寝返りをうつと、目の前に茶色い、煤けた古本が落ちていた。『祝詞全集』一体いつからこれはあったものかは私には分からない。ただ、此れが友人の中禅寺のものであるということは分かる。
あの友人が此れを探しているのかどうかは知らないけれど、とりあえず返さなければ。そう思い、古本を持ち上げるとその下には私の学生時代のお供だった教科書が在った。
--凛。
学生時代のあの頃はもう少し、夏は色のあるものだった気がする。違うか、今は鬱の気にやられてしまっているだけか。
へたれた身体を起こし、網戸越しに窓の外をのぞく。
外の薄青色の空には鳥の一羽も見当たらない。ただ夏の雲がぐたりと並んでいた。
暑いけれど、本を返さねば。重く溶けかけている身体に力を入れる。首筋から背中に汗が一筋流れ落ちた。
私はとりあえずこの本を友人へ返そうと、鍵と風呂敷に包んだ本を鞄に詰め込んだ。
家の外に出ると、そこには色彩が溢れていた。
青空に揺れる草木。
秋桜の黄色やら、なにやら大きな赤い花。
空の薄青色は、
晴れた空に海が青く染まるのが
先なのか、その逆か。
店先の看板の煤けた黄色でさえも今の私には新鮮だった。
眩暈がする。
目眩く夏を知らせる眩暈だ。
凛とした空気で肺を満たすように深呼吸をした。
思い出すは夏の日
20080807

幸福な人々

「手のシワとシワを合わせて・・・」
何になると思う?
と榎木津は中禅寺に尋ねた。
普段からこのような突然訳の解らない発言をする榎木津なので中禅寺はまたか、とでもいうような顔をした。
そして中禅寺は至極嫌そうに榎木津を一瞥した後、重苦しいトーンで
「シワシワ・・・」
とだけ述べた。
それを聞くと榎木津はぱぁぁという効果音が付きそうな具合で嫌な笑いを浮かべた。そして鬼の首でもとったかのようにこう云った。
「手のシワとシワを合わせて、しあわせだ!相変わらず頭が固いなぁ君は」
それから暫く間を置いて面倒臭そうに中禅寺は頭をかきながら口を開いた。
「榎木津には負けるよ・・・」
それから一ヶ月ほどは榎木津がこれに飽きるまで会う人会う人にこれをしたそうだ。
そして薔薇十字探偵社からはシワシワという声が絶えなかったらしい。20080817

笑いの神様

昨日の夜から降り始めた雨は、今朝まで続いていたようだった。そして、その豪雨の被害は誰もが思っていたよりも深刻なもので神保町の探偵にも降り注いだ。尤も、床下浸水とまではしてはいなかったが、奇天烈な探偵榎木津礼二郎を動かすのには十分なものであった。
洪水被害のようなものは出てはいないものの、榎木津ビルヂングの前は何処かからか流されてきた土砂でぬかるみができていた。通常ではある程度舗装されている灰色のコンクリートは泥で覆われていた。
「おぉ、これは酷い、ひどいな。ひどく面白いことになっている」
外が酷いことになっていると伝えに来た和寅をよそに榎木津は愉しそうに外へ飛び出した。外には突然の災害に呆然としてる者やぬかるみがあっては店がどうにもならない、と奮って泥の掃除をする人々がいた。
本屋と学生の多い神保町であるのも関わっているのか、学生のような若者を中心に竹箒の音が景気善く響いている。
その様子は前日よりも活気があり、それを見て榎木津は、いつもよりも元気そうじゃないか。と叫び、嬉しそうにうふふと笑った。
「早く、ここの前もどうにかしましょうよぉ」
情けない声の主は益田だった。長い前髪の奥の眉も情けなく八の字をしている。住み込みではない益田だが、昨晩は雨が酷く、ビルからでることもできなかったのだ。
「五月蝿い、マスヤマ。ここならもうすぐ一階の洋品店の人達が起きてきてどうにかしてくれる。それに此処を綺麗にしたら面倒臭い客やら、酷い時では猿君が来てしまうじゃないか」
それを聞くと益田は脱力したように肩を落とし、悲惨な道路を眺め、溜息をついた。そんな益田のことなど眼中にない榎木津は、大きな鳶色の瞳をきらきらと輝かせ、ホースを手に持っていた。
ちなみに少なくとも榎木津よりはまともな思考を持っていた筈の益田と和寅は、掃除をするために作業着のようなものを着ている。
それに対し、榎木津は今日もまた常識外れな、探偵衣装としても十分に外した格好をしていた。
動きやすいから、と云って黒い細身のジャケットに、明るい色のショートパンツを身に纏いそれはやはり探偵というよりは時代を間違えたモデルのような出で立ちだった。おまけにどこから持ってきたのだろうか、水色のホースから水を撒き散らしていた。
榎木津の格好を見て益田は、高そうな上着だ、と思い着替えてきたほうが良いと云おうかと思ったが、躊躇した。
「さぁ、そこにある泥を片付けようじゃあないか!僕はホースで水を撒いて泥を跳ね飛ばすから、お前達はそれを浴びるなりなんなりする。楽しそうだな!」
「うぇっ、そんな、榎木津さんがそんなことしたらますます酷いことになるんじゃないですかぁ」
「見ろ!」
榎木津は最後の ろ、の発音を巻き舌にしながら指をさした。その指先の先には泥に足を掬われ、見事に転倒した和寅がいた。
「泥でどろどろになっているドロオロ和寅だな」
「坊ちゃん、酷いなぁ」
泥だらけになっても和寅はなぜかにこやかで少しばかり楽しそうだった。今の時点で泥だらけなのは和寅だけだ。
しかし厄介事の帝王でもある榎木津の周りにいる者への災害はこれだけで終わる筈もない。次の標的はもれなく榎木津の助手であり下僕でもある益田であった。
「えい」
榎木津の長い足が益田の脛を思いきり蹴り飛ばした。
「うわっ」
榎木津に蹴り飛ばされた益田は派手な音を立てて泥に突っ込んだ。作業着とはいってもボロボロになってしまった益田は恨めしそうに榎木津を見上げた。
「うぅ、酷い」
「マスオロカめ。お前が鈍臭いからそんな風になるのだ。僕を見ろ、全然汚れてなんていないぞ。神だしな」
「・・・・・・」
腰に手をあてて片手にホースを持ち、偉そうに胸を張る榎木津を見て益田と和寅は顔を見合わせた。そして何か思い付いたかのように少し笑い頷いた。
そして和寅と益田は泥だらけの身体のまま榎木津に飛び掛かっていった。水色のホースが宙に曲線を描く。
「うわあぁ、」
榎木津は立派な上着を目茶苦茶にして、悔しそうに和寅と益田を睨んだ。乱暴に手元に落ちたホースを掴むと和寅と益田に向かって水を振り撒いた。
止めてくださいよぉなどと益田は云いながらも楽しそうだった。端から楽しんでいる様子の和寅もより積極的にその泥遊びに参加している。
厄介事、そして遊びの帝王である榎木津もまた、笑っていた。
周りの人々の活気に更に薔薇十字探偵達の活気が混じる。榎木津達を迷惑そうに一瞥する人もいれば、面白そうに眺めたり、またその遊びに興じる者達が現れる。おまけに最初こそ迷惑そうにしていた者達も、無邪気に遊びに興じる榎木津達を見ていると段々と苛立っていた気持ちは鎮まり、むしろ楽しそうだな、などとほだされてしまう。
榎木津の周りには笑顔が溢れる。
後に益田は中禅寺や関口にこう語ったそうだ。
それを聞いた友人、下僕は口を揃えてこう云った。
あの人は笑いの神様だからね。20080908

ブリキ

ぎいこぎいこ---
古本屋の奥では、小難しい顔つきをした中禅寺と陰気な関口とが缶詰を囲んでいた。
缶詰を開封することに奮闘する関口を尻目に中禅寺は片手に書物を持ち、涼しげにそれを眺めていた。その缶詰が固いのか、それとも少しばかり錆びた缶切りが悪いのか、関口は普段以上に額から玉の汗を流しながら不器用に缶詰開けに精を出していた。しかし、缶詰はまるっきり開く気配などなく、関口が汗を流すばかりだった。
それには流石の中禅寺も見兼ねてやおら立ち上がった。
「本当に君は何をやらせても不器用だな。ほら、寄越せ」
「酷いな、僕だってこれでも努力しているんだぞ。それにこの錆び付いた缶切りじゃあ誰がやったって同じことだよ。榎さんみたいな奴でない限りは変わらないね」
「いいや、僕の家の缶切りは、関口君の家のそれとは違うのだよ。缶詰ひとつ開けるにしてもここ、が必要なのさ。それでも君は物理を勉強していたじゃないか」
中禅寺はそう云いながらこめかみを人差し指で叩いた。そして片眉をあげてニュートンやらの力学を説明しながら器用に缶詰を開けていく。
きこきこきこ--
かつんと軽い音がした。
缶詰の蓋を開ける。
鉛の中からは南国果実の黄色い果肉が顔を覗かせた。
甘い匂いが部屋に満ちる。
「ふぅ」
14の時に力仕事はしないと決めた中禅寺には少々キツかったらしく、大きく溜息をついた。
その時、薄暗い京極堂の中に明るい外の日差しが差し込んできた。生温い風が店内に入り込む。
扉からは見慣れた茶髪を引っ提げて仁王立ちの榎木津が大声で笑っていた。
「京極、パインアップルを食しにきたぞ!」
上手いタイミングでやってきた探偵はアロハシャツに草履、そして大きな麦藁帽子という氣でも触れたような格好で現れた。
「さっき窓の外を見ていたら京極と猿君が汗水鼻水垂らして缶詰を開けているような氣がして、慌ててやってきたんだ!」
店の奥の薄暗い空間で薄暗い関口と中禅寺がげっそりと座り込んで榎木津を見上げ薄ら笑いで出迎えた。20080815

秋の空気

神保町からのんびりと、益田は自転車をこいでいた。目指す場所は中野某所にじっとりと佇む古本屋京極堂である。
秋空が広がる気持ちの良い午後に益田がそこを目指し自転車に乗る理由は榎木津だ。
今朝、益田が薔薇十字探偵社に到着すると普段なら聞こえてくる榎木津の声がしなかった。
住み込みの和寅を問いただすと、榎木津は早朝、しかも日の出前から中野に出掛けていったそうだ。益田は榎木津を探している訳ではない、しかもいなければいないで静かで良いと思う。
しかし和寅は少しばかり普段と違う状況に胸を踊らせる益田にこう云った。
坊ちゃんを迎えに行ってきてくれますか。たぶん中禅寺さんのところですから。
面倒臭い、
-益田は自分自身で情けないと思っている
同情をされるような表情した。しかし、流石に榎木津に何年も仕えている和寅である。多少のことでは動じない。まったく益田の様子などは気にせずに珈琲豆を瓶に移し替えていた。そして漸く瓶から視線をあげたかと思うと、益田に小さな風呂敷を渡した。
それ、中禅寺さんにお土産です。渡しといて下さい。
益田は風呂敷を奪うように受け取ると、そこに馬術用の鞭を差し込んだ。
探偵社の外はもう10月中旬とはいっても体を動かせば暑くなるような気候だった。遠くの空には薄い雲が一筋、流れるように浮いていた。中野までのサイクリングには最適な天気である。
先程まで少し気分の悪かった益田だが、自転車の鍵を指先で玩ぶと、軽快に自転車を漕ぎ出した。
目にかかっている前髪を風がさらう。自転車の籠に放り込んだ風呂敷が小さな音をたてて揺れる。
そういえばこの風呂敷の中身は何だろうと疑問が浮かんだ。
和寅から中禅寺へのお土産なのだが、書痴の本屋が土産に貰って喜びそうなものは益田は本、古本、雑誌、紙触媒の字が印刷してあるもの。
そのわりに益田が和寅から受け取った風呂敷の中身は軽かったし、今現在も自転車籠の中で軽い音をたてている。
誰かが見ている訳ではないが、益田は人がいないか周りを確認し、そしてそっと包みを開けた。中には重箱が入っていた。箱の蓋をとると甘いケーキが入っていた。
先程の人気を確認した行為は無駄だったようだ。それにしてもこんなもの中禅寺が喜ぶのだろうかと益田は首を傾げ乍ら自転車を再び走り出させた。
気が付くと京極堂まで坂を登るだけのところに来ていた。
此処で、もしも、可愛らしい女の子が自転車の後ろに乗っていれば頑張れるのに、と思いながら力を込める。青春小説のような風景を思い浮かべ、口元をだらし無く緩めたまま眩暈坂を見上げる。
益田はもう一度眩暈坂を見上げ、大きく深呼吸した。そしてペダルを踏み込む。最初の方は勢いの良かった益田だが、坂の七分目までくるとやはり、息があがってくる。最後の気力を振り絞り漸く京極堂の店先まで登りきった。

店に入っていくと意外にも静かだった。榎木津は目を閉じて眠っていて、中禅寺は本を読んでいた。
「こんにちは、ちゅ、中禅寺さん」
入ってきた益田に気付いた中禅寺は本に顔を向けたままやぁとだけ云った。
「これ、お土産です」
益田がケーキの入った風呂敷を差し出すと顔を上げた。
中禅寺が風呂敷を開けると陰気臭い空間に甘い匂いが広がった。
慣れたとはいっても益田はまだ少し中禅寺を怖いと思っている。優しいのだが、この男は本当に怖いのだ。
中禅寺はこの愛らしいケーキを見てどんな反応をするだろうか。小心者の益田はそれらしく縮こまっていると
「迎えが遅いぞオロカモノ!」
と無駄に良い声が益田の耳に突き刺さった。
声の持ち主榎木津は寝転んだままで益田の頭上を見上げた。
「ケーキ。道端で笑うな、この変態探偵モドキ。それからな、京極はあまーいのが大好きだ」
先程の益田の記憶が見えたのだろう。益田本人に限っては通じる単語を榎木津は発した。一人で甘ーいなどと云い続けている。
最後の『京極はあまーいものが大好き』と云う言葉を聞き益田は目を大きく開いた。そのままで中禅寺の方を見てみると、重箱に入った可愛らしいケーキをうっとりと見つめて、指先にケーキのクリームをつけて食べようとしていた。
益田の視線に気付いたのか、中禅寺は怪訝そうに益田を見返した。
「僕が甘い菓子を好きなのが意外かい。普段死神呼ばわりされているわりには僕は健全なんだ」
指先につけたクリームを舐めながら中禅寺は楽しそうに云った。
「そんなことより益田君、今日は榎木津を持ち帰りに来たのだろ。いつまでも居着かれちゃあ僕も不愉快だ、早く持って帰ってくれ」
早朝から榎木津に来襲された中禅寺は心なしか窶れていた。尤も常時窶れたような様子な為、益田の思い違いかもしれないが。
「うん、僕もだ!朝っぱらからこんな葬式中みたいな馬鹿本屋と一緒にいたってちっとも楽しくなんてないぞ。さぁ早く僕を自転車に乗せて帰れ」
「はぁ、榎木津さんは歩いて来たんでしょう。帰りも歩いて下さい」
「厭だ。僕は歩かないぞ。乗せてくれないならずぅーっとここにいるからな」
榎木津の子供のような台詞に益田は眉を八の字にして中禅寺を見た。
「中禅寺さん、あのおじさんにどうにか云ってやって下さいよぉ」
「知らん」
冷酷な中禅寺の返事に益田はえぇーと間抜けな声をあげた。
「そうだゾ。第一オマエは僕を連れ帰るように和寅に云われたのだろう!神の遣いに遣わされたのだからもっと喜べ、そしてありがとうと言えば良いだろう!」
榎木津の無茶苦茶な言葉を聞き中禅寺はすました顔で云った。
「だそうだよ。」
「さぁ、女の子と二人乗りするよりも僕の方が有り難いんだ!オマエがそんなことで喜ぶなんて寒気がするがマスヤマはカマでオロカな小市民だから許してやろう」
偉そうに高笑いする榎木津を益田は恨めしそうに睨んだ。
二人の男を乗せた自転車が眩暈坂を頼りない運転でおりていく。
「榎木津さん、お、重いです」
「大丈夫大丈夫」
少しばかり傾斜がきついように思える坂道である為、益田はブレーキを握り締めた。
「マスカマ、遅いぞ。もっと速い方が良いぞ」
榎木津は益田のブレーキを握る手を掴んだ。突然の事に益田はブレーキから手を離してしまう。途端自転車は重力に従って加速していった。
益田がブレーキを踏み込むが、自転車は止まる気配がない。
益田が泣きそうな顔で悲鳴をあげたその時、自転車が急停車した。
榎木津の長い足が大きな音をたてて地面に付いていた。
「あ、危ないじゃないですか」
涙目で益田は榎木津を睨んだ。それを見た榎木津は得意げにふふんと笑いナキヤマが!と云った。
「今度はちゃあんと降りるんだぞ」
榎木津は益田の手を持ち、そのままブレーキを掴ませた。
まったく誰のせいだか、益田は小さく呟いた。益田は何気なく空を見た。夕方の気配を引き連れた空気が見える。益田の頭を見る榎木津にも同じように見えているのだろうか。
二人を乗せた自転車はゆっくりと坂を降りていく。20081022

埃の記憶

僕はそいつが嫌いだ
榎木津の喚く声がした。
関口は自宅から遥々、鬱やら日頃の不摂生が祟って重い身体を引きずり足を踏み入れた神保町。本を求めさまよい歩く者の間をすり抜けて付いたビルヂング。階段を上り、扉を開けて榎木津に顔を合わせて云われた一言が冒頭の台詞であった。
まだほてる、汗が流れる身体の関口を見るなり榎木津は半目のままで「僕はそいつが嫌いだ」と云った。常日頃榎木津のこういった支離滅裂目茶苦茶な言動には慣れている関口であったが、自分に向かいそのように云われると流石に動揺するようだ。
元々の困ったような顔を更にひん曲げて関口はううとだけ唸った。
「関、君の部屋は汚すぎる」
関口は訳が解らないというような顔で榎木津を見るが榎木津の顔には何も答なぞ書いてはいない。
ついには、どうすれば良いものか、と考え出して閉口した。
確かに関口の部屋は妻が掃除をしない限り埃は積もったままである。床に積み重ねた雑貨の間なぞ恐ろしくてのぞけやしない。
いずれ雪恵が片付けると割り切っている為関口は掃除を殆どしていない。特に気分が沈み始めた時なんかは、部屋に虫が沸こうが何しようが放置を決め込んでいる。
なので布団から久しぶりにはい出て、近くの本を取ろうと手を伸ばせばおかしな虫に遭遇なんて良くある。
「僕は竈某が大嫌いだ」
竈某(かまどなにがし)--カマドウマのことだろう。
何故カマドウマ。
「あ、」
そうか、と関口は思い付いた。榎木津は関口の部屋の記憶を視てしまったのだ。汚い埃っぽい部屋。
おまけにどこかじめじめしていて
虫が住むには素敵な部屋。
そこで関口は少なくとも一度は竈馬に遭遇している。その他にも百足やら気味の悪いものに何度も遭遇しているのだが、竈馬はよく覚えている。竈馬は榎木津が嫌いな虫、自らを神と自称する人間の恐れる存在として、関口が竈馬と対面した記憶が鮮明に残っていたのだ。
そしてその鮮明な記憶は榎木津の中で勝手に再生される。
幸か不幸かその榎木津の特異体質を思って関口は口角を曲げた。
その時、榎木津の部屋の方から積み上げられた衣服の山が崩れた。
その衣服は運悪く開いていた部屋から溢れ出て関口になだれ込んだ。頭に引っ掛かっている幾つかの布を引き離しながら云った。
「榎さんの部屋だって汚いじゃないか」
勿論そんなことは探偵には聞こえていないのだが関口は云った。
「榎さんの部屋にこそ、竈馬はいるんじゃあないかい。こんなに汚い部屋ならきっと沢山いるぞ」
関口は意地の悪い笑みを浮かべて云った。
しかし、榎木津はにこりとしたまま机の上に落ちていた羽ペンを動かしながら云った。
「竈某退治ならいつも万全だ!なぜならこの僕が下僕達に毎日竈某退治をさせているからな。さぁさぁ関君、今日は部屋の竈某を退治して貰おう。もし退治できてなくて、僕が居るときに僕が竈某に出会ったら全責任は関だからな!」
酷い。
関口は少し暗くなりながらも榎木津の服を畳みはじめる。
「榎さんも遊んでいないで手伝ってくれよ」
榎木津は関口の畳んだ服を広げ、鏡に向かって体に宛がったりしている。
「厭だ」
関口は榎木津の下僕としての運命を噛み締め、ため息をついた。
-でもこれが満更でもないなんて私もどうかしているな。20081027

八十八夜-01

何度も戸を叩く音がする。
おれはくつ下もはかずに急いで玄関に向かった。
「修ちゃん、遊びにきたぞ!さぁ早く長ぐつはいて出かける」
言う事が訳分からないのは元々だけれど、今日も訳が分からない。よく見ると礼二郎は黄色いレインコートに黄色いながぐつをはいている。
「おい、外の雨ならやんでるんじゃんか」
「やんでるから長ぐつ。ぬかるみはげでげでぬるぬるだぞ。くつがどろっどろになるだろ」
「なら、そんな所入んなきゃいいだろ」
おれが吐き出すように云うと礼二郎はなぜそんな事を云うのか、とでも言いたげにこちらをじとりと見た。
「イヤだ、ボクはドロドロで遊ぶ」
礼二郎は唇を尖らせ、云った。
「いつだってそんなの出来るだろーが」
「いやだ。オマエがいて、ボクがいて、雨あがりだなんていつでもないから」
「・・・わかったよ」
ながぐつをひっぱり出してきて右足左足を収めた。
そして外に飛び出した。
「修ちゃん、ここ!」
「うげ、引っぱるなよ。転ぶっ」
「だーからレインコートきたのに。ボク転んでも大丈夫」
その日、家に帰る頃にはおれもあいつも泥だらけだった。
顔についた汚れもぬぐわずに笑う礼二郎を見て、キレイなのにもったいないと思った。
数年後
昨晩からこちらに向かう嵐で外は横殴りの雨だった。
何度も戸を叩く音がする。
俺は靴下も履かずに急いで玄関に向かった。
「木場修、出かけるぞ」
戸を開けるとそこには黄色いレインコートに黄色い長靴を履いた榎木津がいた。
「嫌だ。お前が居て、僕が居て、大雨だなんていつでもないんだ。珍しいんだぞ。だから、出掛けよう?」
首を傾げる動作に仕方ないなと云いそうになった。昔っからそうだ、巻き込まれる。
「なに恥ずかしいこと抜かしやがる」
目の前に褐色が覆い被さってきた。何かと思い落ち着いて確認するとそれは俺のコートだった。
「さぁ外行くぞ。そこのコートでも着なさい」
こいつが来たのならあらがったって巻き込まれるのだ。
「ちっ、仕方ねぇ」
コートを羽織りながら舌打ちをした。勿論長靴も忘れずに。
「あの馬鹿助手はどこいったんだよ」
馬鹿助手というはこの馬鹿探偵に弟子入りしたいと警察を辞めてまで来た益田という酔狂な男のことである。
「馬鹿だなあ、こんな日に外で遊んでくれるのは木場修と昔から決まっているじゃないか。ねぇ、修ちゃん」
「気色悪ぃ」
肩を組もうとする榎木津を受け流しながらも長靴を履いた。
嵐の日に外に出掛ける準備は完璧だ。外に出ると酷い暴風雨が俺達に向かったが気になんてしていない。玄関を後にした。
「なぁお前昔もこうして俺の所に来なかったか?」
風の音に負けそうだ。大声で聞いた。
「うーんどうだったかな。どっちだって良いだろ。何にしたって、昔から僕らは変わらないって事じゃないか。良いことだね」
余裕そうに答える幼なじみは泥だらけだった。
それでも、綺麗だと思った。

八十八夜-02:日曜日にリンス

「木場さん、お風呂沸きましたよー。服は乾かしとくんでそこに置いといて下さい」
浴室の扉を開くと異世界だった。
猫脚の白いバスタブ。
色とりどりの薔薇の花びら。
何故俺はこんなところに、と木場は思った。榎木津が原因だ、と言い切りたいところだがそうでもないのがさらに木場を苛立たせた。
因みに榎木津はいまだ、外の嵐を楽しんでいるらしい。
俺は飽きた、と木場が云うと榎木津は僕はまだまだ飽きない。木場修が先に帰るまでは絶対に飽きないと云ってまだ外を歩いている。
木場は舌打ちをした。決して嫌な気持ちではないのだが、余りにも乙女趣味なこの風呂場は武士などと呼ばれている三十路男には少々辛い。
しかし榎木津の馬鹿な誘いで大雨の中を歩き風邪をひくなんていうのは御免である。冷え切った身体のままでは風邪をひいてしまうだろう。木場は逃げ出したい気持ちを抑えて浴槽に身を浸した。
足先が湯に触れると赤や桃色の薔薇の花びらが揺れた。上半身を湯に浸せばふうわりとシャボンが出来て浴室に浮かぶ。
なんで猫脚の風呂が探偵の事務所にあるんだよ、なんで突然の来客相手に、しかも俺なんかにこの薔薇風呂なんだよ・・・馬鹿探偵のような見た目お人形さんみたいなのが入って漸く絵になるが、俺みたいのじゃあ、と木場は独り言を云った。
そもそも猫脚のバスタブというのはどこかのお金持ちが使うものである。風呂に入り終わったら使用人あたりがバスタブを持ち上げ残り湯を手動で捨てるという様式の筈だ。木場は風呂の底をのぞいてみた。
底にはよくわからない排水管がごちゃごちゃに繋がっていた。流石榎木津だな、と思いながら木場はそれを見なかった事にした。
気持ちを切り替えて、木場は身体やら髪を洗い始めた。シャンプーにしても石鹸にしてもなにもかも良い香り。普段白い四角い石鹸で髪も身体も一緒くたに洗ってしまう木場は少し浮かれた。
旅行先で位でしか使わないリンスまでおいてある。これで少しは針金のような髪もましになるものなのか。乱暴にポンプを押し桃色のリンスを髪につけた。
リンスを洗い流し、自分の髪に触れてみる。心なしか滑らかに指が通る。針金みたいだった髪もしなやかだ。
風呂にもう一度浸かると気分は完全にお金持ちのようだった。
花畑にいるような心地のまま木場は風呂を出た。にやける口元を引き締め、傍らにあるタオルで身体を拭いた。やはりタオルも心地良く、花畑にいるようだった。
はたして風呂の湯は抜いておいたほうが良いのか。ぱりっと乾いた開襟に腕を通しながら木場は聞いた。
「おーい、風呂の湯は・・・」
すべてを言い終える前に返事は返ってきた。
「後で掃除とかするんでそのままでー、ってうわぁ、先生お帰りなさいっ」
木場よりも少し長く外の嵐を楽しんでいた榎木津が漸く帰ってきたようだ。もしかしたら俺のために少し時間をずらして帰って来たのかと木場は思ったが、その邪推は云わなかった。
「木場修、僕の風呂は良かったろう?さてさて僕も風呂だ」
豪快に服を脱ぎ捨てて行きながら榎木津は風呂場へと向かっていく。風呂に向かう路には点々と靴下やブラウスが落ちていた。
「さぁーて、和寅、お風呂から出たら酒が飲みたい」
風呂場から榎木津が首だけだして和寅に注文している。
「へいへい、もう買ってありますぜ、先生。先に呑んでますか?」
「お、馬鹿探偵の給仕にしちゃあ気が利くじゃないか」
木場は徳利片手に三角錘の横に座った。窓の外が良く見える。外は酷い天気で、花見には程遠い。
「桜はないですけど、風呂に使う薔薇でも浮かべたらどうですかねぇ」
和寅も酒を片手にしている。
「良い湯だった!」
榎木津が風呂からあがったようだ。緋色の襦袢を適当に纏った格好である。
「お、僕にも頂戴」
どこから持って来たのか、タンブラーを木場に差し出す。酒を入れろということらしい。酒を注ぐ為に身を寄せると榎木津からもリンスやらの香りが広がった。
これだけでも十分に花見気分だな、と木場は思った。

八十八夜-03:さくらさくら

祭の後のようだ。宴の後の名残が散らばっている。
昨晩は榎木津と木場の宴がだらだらと続き、轟々と風と雨のなる夜だというのに不安はなかった。笑い声や歌の聞こえる中、和寅は不思議と安心して眠っていた。
朝は、日差しと鳥の声で和寅は目覚めた。物語に出てくる情景のような朝であった。
いつものように竹箒を持ち、ビルの階段を降りていく。
頬に水分を感じ、木漏れ日を見上げると葉桜が揺らいだ。先日まで二晩続いた嵐はようやく止んだ。桜はすっかり落ち、水溜まりに満開に咲いていた。
先日の嵐により神保町の探偵社に泊まっていた木場と酒を呑むだけ呑んで大騒ぎしていた榎木津はまだ寝ているようだ。和寅は探偵社の外に落ちている桜を箒で払いながら雨上がりの空気を大きく吸った。
肺の中まで外の青が入り込んでくるようだった。青葉の匂いもつん、と香った。まだ幾分残る水溜まりなどが気温の上昇を抑えているらしく、もう太陽が昇りだいぶ経つというのに肌寒い。
「涼し・・・」
誰に云うわけでもなく、和寅は云った。箒を胸に抱きながら探偵社へ戻っていった。
探偵社へ戻るとちょうど帰ろうとする木場に鉢合わせた。
「お!お帰りですか」
「あー、馬鹿によろしく伝えといてくれ」
木場はまだ昨日の酒が抜けていないのか、少しふらつきながら云った。
和寅が室内に入り、先程までそこにいたであろう客人の様子見に窓に近寄る。それを追い抜かすように榎木津がその横を走った。
ばん、と窓枠が外れるのではないかという勢いで榎木津は窓を開けた。そして身を外に乗り出す。
危ないですよという和寅の忠告も耳に入っていないようだ。
「木場修、今度は雨じゃあなくて」
榎木津は片手を振り回しながら云った。不安定に体は揺れ、窓枠はきしきしと唸る。
「あぁ?」
木場は良く聞こえなかったらしく、耳に手をあてる動作をした。
「今度は雨じゃなくて、花見に行くからな」
体を揺らしそれを云うと、榎木津の上体が大きく揺らいだ。
「うぁ」
「馬鹿っ」
木場の大声に和寅は目を丸くした。一方で榎木津はというと、元より持ち合わせた身体能力でバランスを取り直し、けろりとしていた。まったく、と木場は頭に手をあてた。
「じゃあ、次には桜のとこでね」
バランスを崩し、危険だと思ったばかりだというのに早速榎木津は手を大きく振った。
その後ろで和寅は榎木津に抱き着くように押さえている。
「酒は持ってこいよ」
木場は背を向け、手だけをひらひらと振った。
花見の準備は早めに取り掛からなければ、和寅は思った。
宴がまた始まる。
20090426

おにぎり

「先生、原稿はどうですかぁ?」
我が家に入って来て第一声、私にとって今一番聞きたくない言葉を発したのは、實録犯罪のカメラマン兼編集記者である鳥口守彦であった。勿論遅筆の私は原稿が終わっている筈もなく、そのことを予測していたであろう鳥口は私にはっぱをかけに来たのだろう。
「残念ながら、全然進んでいない」
「やっぱりですか」
開き直って打ち明けたら少しは鳥口の態度が変わるだろうかと思ったのだが、この青年、少しも変わらない。それどころか、やっぱりなどと云われてしまった。少しばかり不機嫌になった私を置いていって鳥口は自分の鞄をあさり乍ら更に続けた。
「先生、進んでいないと思って、応援に作ってきたんですよ」
よかったら食べてください、と鳥口は小包を二つ取り出し、そのうちの一つを私に差し出した。
「おにぎり、作って来たんですよ。これなら片手でも食べれますし、原稿書いていると頭使うから腹がへるかと思いまして・・・・・・」
ちょうど昼時で、妻も出掛けている為にまだ昼飯を摂っていなかったことに気が付いた。気が付くとともに、腹の虫が鳴った。
腹に向けた視線を上げると鳥口と目が合う。
「ちょうど良かったみたいですね」
見透かされたようで少し癪だったが、タイミング良く音をたてた鳥口の腹の音を聴くと、どうでも良くなってしまった。
「うへぇ、僕も昼飯がまだなんですよ。今日は御飯を多めに炊いてしまったンですよ」
とりあえず、頂きましょう。
私は鳥口にありがたいなどと滑舌悪く礼を述べ乍ら受けとった包みを開いた。
中にはしっかりした形では無いものの握り飯が二つ、入っていた。海苔は別に入っていた。
鳥口曰く、握り飯の海苔は湿っけていない方が良いから食べる直前に巻くのだそうだ。榎木津が聞いたら憤慨しそうな話である。
私は不器用に海苔を、固めた飯に巻きつけていった。鳥口も似たように巻いているだろうかと横目で窺ったが、器用に海苔を巻き終えて、すでにがつがつと食べ始めている。
私は出来上がったそれを見ると海苔はよれよれと曲がって貼ってあり、自分自身の生き様のような飯に少しばかり憂いを感じた。
「ところで、これの中身は何が入っているんだい」
いびつな三角形の頂点を一口かじり聞いた。固い海苔の破ける音がして、潰れ気味の米粒が顔を覗かせる。御飯は固めであったが、程よい塩加減であった。
「味付けした鶏肉です」
もう一口かじったところで私は停止した。咀嚼しながら食べた断面を見ると、煮染めた肉が顔を覗かせていた。甘い醤油のにおいが鼻腔を擽る。中身は梅干しだとか、沢庵だとか、包丁で切って包むだけのようなものを想像していた私は驚いた。
「へぇ、意外に料理、出来るんだな。もっとこう、殺伐とした男の料理、みたいなものを想像していたよ」
肉と米を口に運ぶ。甘く味付けのしてある鶏肉もまた、米と同様に固めであったが、なかなか美味である。
「僕ァこう見えても器用なんですよ。それに今の時代、男も料理の一つでも出来ないと!」
「僕は、妻がいるから。それにさ、結婚してしまえば余り関係ないんじゃないかな」
「でもよぉく考えてみてくださいよ。最近は、男女平等だの女性の社会進出の時代ですよ。女が家事だけではなく仕事までこなして、負けをとってるみたいで悔しいんですよ。僕ァ家事もできる男になるんですよ!僕みたいのは、寝て、文を書いているだけでは女性に愛想を尽かされてしまいますよ」
少々私に対する嫌味を感じたが、そこは受け流した。どうにも私の周りの連中は榎木津や京極堂の影響を受けているのか、私を虚仮にする傾向にあるようだ。
「女々しいなあ。君まで益田君のようになっていくのかい。そのうち榎木津にトリカマとか呼ばれるようになるぞ」
「酷いなぁ。でも、なかなかこれ美味しいでしょう?」
「あぁ、美味い。これなら君でも良い貰い手が見つかるかもな」
小さく嫌味ったらしく冗談を云ってはみるが、やはりこの鳥口という男はそのうちの冗談という部分だけを汲み取って理解したらしい。笑っていた。
「そりゃそうですよ。僕ァ、面倒見が良いと昔っから云われてますからね。それに先生といればいやでも世話焼きになりますよ。師匠だってすげない素振りを見せてますけど本当のところは・・・ねぇ」
「で、でもなぁ君の場合押しかけ女房、ではないが押しかけ編集者じゃないか」
「弱者は友を呼ぶんですよ」
例に依って鳥口はまた間違えをしている。この男は余りにさらりと間違えるので胡散臭さがないのである。
それにしても、私の周りにいる者たちはヒトの図星を付くのが上手くなってきている気がする。
事実、私の周り、榎木津は除くが、周りにいる人には世話焼きが多いのである。世話焼き、そして加虐的な者、の間違いだろうか。
私を含め、周りには変な者が多い。その為か、近づいてくるものは大半が変人奇人である。普通のものも引き寄せられるようにこちら側にくるのだが、日が経つにつれおかしくなってしまうか、若しくは去っていく。よってやはり変人ばかりが周りに残るのである。
ある言葉が頭に浮かんだ。
「類は友を呼ぶ、か」
つい、声に出していたようだ。
「ううん?何か云いました?」
鳥口が胡乱な私を見る。
私はますます胡乱な顔をして、
その場を誤魔化すようなわらい顔を浮かべた。2008092615

クッキー

呪い占いなんて怪しいものは信じちゃいないが楽しいものは大好きだ。
榎木津率いる探偵社から甘い匂いがしてきた。それに誘われるように出社してきたのは、榎木津の下僕の益田である。
「あれぇ、いいにおいがする」
「あぁ、それは先生が焼き菓子を作ってるんですよ」
益田の呟きに答えたのは、探偵社に仕える、そして榎木津の下僕のひとりでもある和寅であった。
「焼き菓子?」
「そうだ!」
やたら明るい声を張り上げて、甘い香りの首謀者榎木津が現れた。片手にはミトンをはめていた。
「僕の大ッ嫌いなクッキーを焼いていたのさ」
大嫌いと云いながらも、機嫌良さそうに榎木津はにこりと笑う。その麗しい笑顔を崩さずにオーブンの方まで近づき、中を覗き更に笑みを深めた。
「もうすぐ焼けるな、」
榎木津はミトンをもう一度きゅ、と嵌め直すと可愛らしいバスケットを取り出した。
そして甘い匂いの発信源であるオーブンを開ける。楽しそうに榎木津は鼻歌を歌いながらオーブンの中からクッキーを乗せた鉄板を取り出した。
益田がどんなものが出来たのだろうかと覗き込むとそこには円形の厚みのある美味しそうなクッキーが規則正しく並んでいた。
それを榎木津はとびきりの笑顔のままバスケットに詰める。
そのバスケットを両手で大切そうに持つと榎木津は真っ直ぐに益田と和寅の元へと向かっていった。
「さぁ、一つお食べ」
ずいと鼻先にバスケットを突き付けられ、思わず益田はのけ反る。
「良いか、ひとつだけだぞ」
のけ反る益田に榎木津は釘をさすようにゆっくり低い声で云った。その真剣な榎木津の眼差しに、ごくりと生唾を飲み込むと益田は震える手で一番上にのっていたクッキーを受け取った。
「それで、いいのか?」
榎木津が尋ねると益田は首を縦に振った。そして榎木津はその重苦しい雰囲気のまま和寅の方にもクッキーを差し出した。
そして益田と和寅はよくわからないままそれを半分ほど食べた。
普通に美味しい、甘いクッキーであった。堅すぎず半生なわけでもなく、絶妙な焼き加減だ。
「どうだ?」
榎木津は頚を傾げて尋ねた。尋ねられた二人は 美味しいです、とか感想を言った。それに対して榎木津は少しばかり不満な顔をし、もう一度尋ねた。
「中におみくじ入ってただろう?」
「入ってなかったですよ、入れ忘れたンじゃないですか」
「そんな筈はないゾ。だって、ほら!」
榎木津は手にしたクッキーを半分に割る。するとそこには、小さな小指の爪先程の大きさの紙が少しだけ顔を覗かせていた。クッキーから紙片だけを摘み出し、榎木津は割ったクッキーを和寅と益田に押し付けた。
広げても小指に乗るほどの大きさしかない紙には今日は良いことがある!と小さな文字で書いてあった。
それには流石の二人も、ちっさ!と叫ぶ。
「これじゃあ飲み込んでしまいますよぉ」
「注意力散漫なだけだろう!」
「っていうかどうやってこんな所に字を・・・」
「米粒に書くよりは、簡単だぞ!」
「あぇっ?米粒!?」
漫才のような会話の後に榎木津は踏ん反り返って言った。
「そうだ!最大十文字までな!」
いつの間に用意したのか、和寅は米粒と榎木津の机の上にあった細い筆を持ってきていた。
榎木津はそれらを受け取るとさらさらと米粒に何かを書き込み始める。
「出来たぞ!」
それを聞いた益田が榎木津の手元を覗くとそこには何やら小さな文字が書かれた白米が一粒あった。目を細める益田に和寅はそっとルーペを差し出す。
ルーペを持ち米粒の文字を読んだ益田は苦笑いをした。
そこには益田の愛称「マスカマオロカ」と書いてあったのだ。感嘆しつつもその愛称に対し突っ込みをいれるべきなのか。
「似顔絵も描けるぞ」
榎木津はまた筆をとり米粒になにやら描きはじめた。
できたものを覗くと、多国籍な雰囲気溢れる釣堀屋の伊佐間屋の顔が描いてあった。
「似てる!」
「流石、凄いですね!」
驚く二人にふん、と鼻で笑うと、また榎木津は何かをかいた。
次に現れたのはげじ眉の和寅と泣き顔の益田の顔だった。
「なんで僕だけ泣き顔なんですかぁ」
「今のマスカマの顔にそっくりじゃないか、ナキヤマ!」
困惑した顔をする益田に榎木津は遠慮なく言った。
「酷いですよぉ」
「それにしても先生にこんな特技があるなんて知らなかった!なんでこんなん出来るンです?」
「そりゃ、呪い占いなんて怪しいものは信じちゃいないが楽しいものは大好きだからだ。もしお前達が挙式を挙げることになったらマスカマの顔でも描いたライスシャワーでもやってやろうかな!」
「やめて下さいよ」
「そうですよ、縁起が悪いです」
和寅の言葉を聞いて益田は頬を膨らませた。
「そんなこたぁないぜ。僕は、幸せの運び屋さ」
益田はけけけと気味の悪い笑いをした。柳のように垂れる長めの前髪は、やはり幸せの運び屋というよりは何か別のものと云った方がしっくりくるように思われる。
「この、不幸せもの!」
突然榎木津が横から益田を小突いた。ぐえ、と益田は蛙の潰れたような奇声を発する。そんな益田と榎木津を見て和寅は幸せそうに笑った。
(ところでさっきのおみくじは何が書いてあったんです?)
(そういえば、そうですよね)
(大凶だ!)
(酷いですよぉ!)20081125

Dictyostelium discoideum

関口と原稿の打ち合わせに鳥口は、中野に来ていた。
「こんにちはー、関口先生、いらっしゃいます?」
関口巽は今日も弛緩して融解しているだろう。しかし鳥口を出迎えた関口巽の細君は夫とは違い、りん、と美しかった。
「あら、こんにちは。あの人なら奥の部屋で何か書いているみたいですよ。もしかしたら寝ているかもしれません」
「そうですか、じゃあ、お邪魔しますね」
鳥口はじゃあ寝てるんでしょうね、と云いそうになるのを堪えた。関口家の廊下は涼しいというよりも少し寒かった。日が陰っているからだろうか。その廊下を抜けて鳥口は関口の部屋へと向かった。
「関口センセー、調子はどうですかぁ・・・」
中からの返事はない。
そっと戸をずらし、中の様子を除くと机に突っ伏すようにして関口が眠っていた。
机の上にはびっしりと書き込みのされた紙があった。原稿用紙だ。
原稿の隅に小さな落書きがあるのを鳥口は見つけた。小さな茸のような、街灯のような物体だった。この物体の下には小さく文字が書いてあった。
「Dictyostelium discoideum」
何のことだろうか、と鳥口は考えた。ちらりと関口の横を見るとそこには古びた大学ノートが一冊置いてあった。
一寸失礼と、誰に言うわけでもなく鳥口は呟くとそのノートを開いた。ノートの中には少々汚い文字ではあるが何かしらの生物の名前や、その構造についてが並んでいた。
カストリ雑誌の編集をしている為、様々な分野に一応、手を出している鳥口である。ぼんやりとだが、これは関口が大学時代に使っていたノートであるということ位は解った。そして書いてあることも何かしらの菌の名前なのだろう。
ぱらぱらと読み進めていくところで鳥口は先程、関口の原稿上で見たものを見つけた。
そこには先程の外国語と日本語、そして簡素な説明文が書かれていた。
「キイロタマホコリカビ」
そこで鳥口はようやく、これが粘菌なのだと理解した。(尤も関口が昔に粘菌の研究をしていた事は知っていたのだが、なぜか思いだせなかった)
関口は何を思い粘菌の研究をしていたのかは定かではない。今だって研究をしたいのかもしれないし、しかしこちらの小説家としての生活の方が気に入っているのかもしれない。
どちらが良かったのかは鳥口には解らないが、ほんの少しだけ、知らなかった部分を覗いてしまったような気分になった。
非日常のような気分を打ち消したく思い、鳥口は飄々とした声を作った。
「うへぇ、関口先生!僕と仕事の打ち合わせする約束忘れてますね?寝てないで下さいよっ」
机から顔をあげた関口は、うん、あぁ、鳥口君か?と云ってもう一度机に突っ伏す。
まったく困ったなぁと鳥口は云いながらもその様子に困っているようではない。むしろ楽しそうだった。鳥口の予想通りな寝起きの関口がいたからである。
本当に寝入っていた癖にそれを言及すると言い訳をする。鳥口はそんな関口が面白くて仕方ないのだった。
どうか今のこの仕事、この瞬間を関口が楽しく思っていれば良い。
いまだ半目でうつらうつらしている関口を見て、鳥口は願った。
(今、昔のこと)20081222

クリスマスというイベント事はとうに過ぎ去ったというのに、榎木津がでかいクリスマスケーキを持って現れた。
典型的な日本家屋、そして常に店主が和服を着用しているという京極堂には少々ミスマッチである。
「おいっ、京極!居るのだろ?」
ケーキがあるぞ、甘いのがあるぞ!と動物をおびき出すかの如く榎木津はケーキの入っている箱を掲げて揺らしている。
そんなものに大の大人がおびき出される筈はないと思われるが、ここの店主中禅寺は甘いものには目がない。あっさりと玄関までやってきた。
おまけに、箱を揺らす榎木津を見つけるやいなや、慌てた様子でそれを止め榎木津から箱を奪った。
「なんだ、そんなにケーキ食べたかったのか?」
「違う、振ったりしたら中で潰れてしまうだろ。ケーキというのはね、食べてただ腹に入れば良いというものではないのだよ」
中禅寺は丁寧に箱を持ち直し、それを自室まで運んでいく。その様子はまるで妖怪の豆腐小僧のようだった。
運ばれたケーキの箱は早速中禅寺の手によって開けられる。赤い立派な包みも、金色のリボンも甘党男の前には邪魔な障害物でしかない。欝陶しそうにその金色を解き、乱暴に赤い包みを剥がすと、中から白い箱が現れた。
ごくり、と中禅寺は生唾を飲み込む。箱にそっと指先を触れる。
その指先を側面に向かい這わせていき、箱をとめていたテープを剥がす。テープを剥がすことで現れた割れ目の中央に指をかけ、大胆にそこを開いた。
その中からはふわりとケーキ独特の甘いクリームと果物の酸味のある香りが漏れる。
ケーキを乗せている台座の底に手を入れて、箱から取り出した。ケーキの上に乗るイチゴにかけられているシロップに窓から入る光が反射しててらてらと光っていた。
いつの間に用意したのか、中禅寺はケーキに包丁を入れようとしていた。
「僕は四分の一ほど食べるが、どうする?」
中禅寺は縁側で猫の柘榴と遊んでいる榎木津に聞いた。
「おなじくらい」
気合いのない返事が返ってきた。甘党としてはもう少しケーキを食べることにやる気をだして欲しいものだ、と考えるのだが、今の中禅寺にはもっと重要なケーキを切るという作業がある。改めて気合いを入れ、包丁を持ち直した。
ケーキの柔らかい白いクリームに包丁が差し込まれる。中の苺が邪魔をして一度で切れないということは経験上知っている。ケーキの段が崩れないように、細心の注意を払い、包丁を小さく動かしていく。
少し、クリームがケーキの端からはみ出た。中禅寺の骨張った指がそこのクリームを指先に絡めとり嘗めた。
そしてもう一度ケーキに包丁を入れる。半分の半分になった、ケーキを和風の、普段煮魚をいれる皿の上に乗せていく。
榎木津の座るであろう場所と自分の前にそれを置くと中禅寺は大層嬉しそうにフォークを手にとった。榎木津のそっちのほうが良いなという文句も今は気にならない。
「それでは、いただこう」
無言でケーキを食べる男二人の横で柘榴は大きく欠伸をした。
20081228

石鹸を買いに

--石鹸を買いに行く。ついでに本屋にも行こう。
素敵で奇天烈な探偵がそう云った。奇天烈な榎木津は石鹸にはこだわりがあるらしい。フランスだかどこかの国の薔薇の香りの石鹸でないと嫌なのだそうだ。
正直出無精な若者中禅寺には憂鬱なことこの上ないのだが、本屋にも寄るのなら良いか、とやおら重い腰をあげた。
榎木津御用達の石鹸を扱う店に到着した途端、中禅寺は少し後悔をした。やはりその店は流行りものやらの好きな御婦人ばかりの集う店だったからだ。
そんな店に無駄に麗しい男と枯木のような男が二人。物凄く、浮いている。おまけにすれ違いざまに榎木津に降り注ぐ御婦人方の熱い視線が隣にいる中禅寺にすら、欝陶しく感じる。
中禅寺がはぁ、と盛大に溜息をついたその時、側頭部付近に霧が散るような感覚があった。そして遅れて香る花の香り。
何があったのか。と目を見開く中禅寺の横では榎木津が香水の見本品を片手に笑っていた。
「チェリーブロッサム、桜の香り、だそうだぞ」
「桜には香りがないんだが」
珍しく中禅寺の突っ込むところがずれている。普段からずれている榎木津がそのずれを指摘する筈もなく、そこは何も触れることはなく二人の会話は進む。
「桜には香りがないのか?じゃあこれは偽の香りかぁ」
プシュともう一度榎木津は香水を噴射する。
「この紙を使いたまえよ」
漸く中禅寺軌道修正をした突っ込みに戻ってきた。香水の横に置いてあった厚紙をひらめかせながら中禅寺は云った。
「まったく、お蔭様で香水臭くなってしまったよ。こういうものは手首にでもつければ充分なんだ」
「いいじゃあないか。僕なんて、みろ。全身薔薇の香りだっ!しかし僕はそれを恥じてはいないよ、京極。なぜなら僕は」
「かみだからな」
中禅寺は呆れたように云った。しかしその呆れたような表情の割には目に強く力が入っている。一瞬の記憶が榎木津に入り込む。
しかしその記憶の再生は少しだけ遅かった。
中禅寺が榎木津がよそ見をしている隙に榎木津が棚に戻した香水の瓶をそっと手にとった。そして榎木津に向ける。ふわり、柔らかい桜を思わせる香りに榎木津は包まれた。
「わわっ」
中禅寺の思わぬ仕返しに榎木津は声をあげた。仕返しに成功した中禅寺は珍しく声をあげて笑っている。
「これで仕返しも完了だな!」
石鹸の買い出しも終わり榎木津と中禅寺は駅に向かって歩いていた。本屋に行く前に関口と駅で合流するのである。両手に石鹸の入った袋を抱える榎木津は欲しいものも買えてご満悦といった顔をしている。
駅に到着するとそこには相変わらず挙動不審でいまにも職務質問されそうな関口がいた。
「やぁ京極堂、榎さん」
関口は一通りごもごも喋った後、怪訝そうな顔で中禅寺と榎木津を見た。そして手で鼻の前を仰ぐような動作をする(アンモニア等の刺激の強い匂いを嗅ぐような)。
そして一言言い放った。
「二人とも、香水臭いぞ?」
それを聞くと中禅寺はあぁ、と一言だけ云って頭を抱えた。
榎木津は特に気にする様子はなく、むしろ関口に石鹸の入った袋を押し付けた。
なんで香水臭いんだよ、不気味だななどと関口は文句を云っている。そんなことを云いながらも関口はついてきているのだが。
そして関口は知らない、
自分も含めやたら良い香りを放っていることを。石鹸の入った袋も半径1m以内に薔薇の香りを撒き散らしていることを。
20090107

光る日々

あの事件があって暫く経ってからの晴れた日に呉美由紀と榎木津礼二郎は再会した。
美由紀は心地良い陽射しの中、新しい生活に向けて買い物に出ていた。余りにその陽射しが心地良くて、青空が綺麗だった為、大きく空を仰いだ。
すると大きなビルヂングの硝子に太陽の光が反射した。美由紀の瞳が歪む。
少し歪んだ視界の中に少し見覚えのある影を見つけてしまった。
見覚えもなにもしっかり記憶に焼き付いている。その影は忘れようとしても忘れることが出来そうにない程の変人だった。
「探偵さん!」
私は懐かしく思い、つい周りの目を気にもせずに彼を呼んでしまっていた。
しかし、探偵は振り向きもしない。人違い、ではない筈だ。
なんだか腹がたった。
私は---
「ぐえ」

気持ちの良い青空のもと、榎木津の声が響いた。
美由紀の跳び蹴りが榎木津の背中に思い切りあたったのだ。
腰を曲げて顔を歪める榎木津の横では美由紀がすっきりした、とでもいうような顔でいた。すっかり榎木津との立場が逆転している。
「なんで無視するんですか!」
美由紀の質問に榎木津は面倒臭そうに唸る。
「うー、痛い
 ああ、君はいつかの女学生君!確か、名前は・・・呉竹筆子?まぁ女学生君で良いか」
まったく噛み合わない会話と素敵なネーミングセンスに美由紀は相変わらずだなと呆れている。
しかしその表情は穏やかで、この掛け合いを楽しんでいるようでもある。事実楽しいのだが、それだけでは美由紀は納得できない、そんな気持ちの揺れがあった。
これからの新しい生活への期待で気持ちが落ち着かないのだろうか。それだけでもないようだ。しかし美由紀はまだそれには気が付いていない。日の光を美しく思うのも、花びらの一枚一枚が鮮明に瞳で光る原因をまだ知らない。
まだ彼女はそれを知らない。それが世界を変えていたなんて。
「んー」
榎木津は美由紀の頭の上辺りを眺めた。
「大切に、しなさいよ」
何のことだかまったく分からない美由紀には首を傾げるしかなかったが、榎木津はそれが何かを説明する気などない。
「僕はそれを教えてやるなんて野暮なことはしないよ」
それだけを告げると榎木津は去って行った。嬉しそうなその物言いに美由紀の頬も自然に緩む。
「よく分からないけど、ありがとうございます?」
良く分からないけれど美由紀は微笑まずにはいられなかった。
新しい生活はすぐそこ。
20081225

冬の空は高く見える。
雲もないそこには星が三角形や神話の登場人物を象っている。
時折、寒空に散る息で視界に霞がかかり寒さを嫌でも連想させる。
「おぉ、寒い」
濃い灰色の襟に毛皮を付けた上着を着た榎木津が大袈裟に云った。
「まだいい御身分でしょう?僕なんて突然の訪問、突然の外出で何も出掛ける準備なんて出来なかったんだから」
その横で上着になりそうなものは身につけずに、着物だけの中禅寺が恨みがかった声色で云った。
襟元からは骨と皮ばかりの首筋が見えていて、酷く寒々しい。
二人は白く息を吐き出しながら空を見上げた。濛々と白い息が視界を包む。
「それにしたって、寒い!」
「あぁまったくだ。」
上を見上げたまま二人は寒い寒いと云った。
その時だった。
空に一瞬琥珀色の光が尻尾を付けて走って、消えた。
「流星だ」
腕を組んだまま空を見上げ中禅寺は云った。
首を傾げ榎木津は左右に目を動かした。
「ん?僕には見えなかったぞ」
視力の良くない榎木津には流星を上手く見ることは出来なかったようだ。中禅寺には神話も三角形も空で見えるが、榎木津にはすべてがぼやけて靄の中の世界なのだ。
「残念だな」
榎木津とは見える世界が違う。それは誰であったって同じことだが、中禅寺は少し寂しさを感じた。
中禅寺がそんな考えことをしているとは思ってもいない榎木津は何処か遠い場所を見ていた。
「おぉ、綺麗な流れ星だな!」
中禅寺が流れ星を見てから少したって榎木津は急に云った。
また流れ星が流れたのだろうか、と中禅寺も空を見上げるがもう何もない。
「僕にも視えたぞ!」
ふいと榎木津を見ると、彼の視線は空高いところではなく、中禅寺の頭上だった。
「見えたって、僕の記憶から視たのか」
中禅寺は少しだけ笑い、
そして榎木津が視た、中禅寺自身が見ていた空を瞳に映した。
空にはもう、琥珀は消えて、小さな星がただそこに在った。
二人は白く息を吐き出しながら空を見上げた。濛々と白い息が視界を包んだ。
20081213

京極堂の本には時々葉や草が挟まっている。
関口は京極堂で本を物色していて発見した。それは栞(しおり)代わりに挟んだものなのか、それとも偶然か。
どちらにせよこの本のこの貢をいつ主が読んだのか、いつ手に取ったのかを察することができるのは面白いことであった。
--
とある陽の降り注ぐ昼のことであった。
中禅寺は一番煎じの美味い玉露を飲みながら自室で本を読んでいた。静寂の中、葉が落ちるような本をめくる音だけが響いていた。
すぱぁん
その静寂を完璧に打ち破るように派手な音をたてて榎木津が登場した。一通り高笑いをすると一息いれてこう云った。
「やぁ、待たせたな!」
「襖は静かに閉めてくれ」
中禅寺は渋い顔をして返事をする。普段から中禅寺は渋顔だの云われているのだから、普段と変わりないようにも思える。
しかし、今の榎木津の格好を見る限り中禅寺がそのような顔になるのも仕様がないかもしれない。
奇抜な服装が問題なのではない。問題なのは、一体どこの雑木林に入ってきたのかい?と聞きたくなるような草やら葉っぱだらけの榎木津のことだった。
どうやらこちらへの道中で銀杏の下でも通ったのだろう。コートの繊維に銀杏の黄色い葉までもがぶら下がっている。
「まったく、どこに行けばこんなになるんだ!」
榎木津の髪や服から落下した落ち葉を集めながら中禅寺は嘆いた。
嘆く中禅寺を余所に、榎木津は中禅寺の読んでいた本を手に取った。その本には中禅寺の何故挟んでいるのかよく解らない挟んだままになっているこよりが幾つもはみ出ていた。
「それならば!」
主語を抜かし完全に自分の世界といった調子で榎木津は声を張り上げた。
「なんなのだい?」
いいから本を返してくれ、と言わんばかりに中禅寺は榎木津に手を差し出した。
榎木津は頭に付いていた葉を2、3枚とるとその中でも綺麗なものを選別した。
そして中禅寺の読みかけであっただろうページを開きそこに葉を挟み込み、中禅寺に本を返した。
「栞代わりに使えば良いじゃないか」
中禅寺はがさがさと頭を掻き、それから本を受け取る。
「僕に押し花みたいな趣味はないのだが」
受け取った本から栞変わりの葉を取り出すと薄手の藁半紙でそれを挟み、また本に戻した。
--
関口はまた一冊他の本を手に取った。
以前関口が京極堂を訪れた時に中禅寺が読んでいた本である。
ページをめくっていると本の中からまた、藁半紙に包まれた植物が出てきた。
先程の葉は見たことがなかったが今度の花は、見た覚えがある。以前に此処を訪れた際に関口が持ってきたナガボノヒナゲシの橙色の花びらだった。
「うん?京極堂、君は押し花の趣味でもあったのかい?」
「僕の趣味じゃあないよ」
そう答える中禅寺は手元にあった紙屑を栞に本を一旦閉じた。
(時をはさむ)20090128

考察
(阿呆な関口と益田と中禅寺の話)
益田がドーナツをわざわざ並んで買ってきたそうだ。
人と会うことや人ごみをさ迷う事を良い事だと思わない対人恐怖症持ちの私にはその心情は理解に苦しむ。
今私は京極堂に居る。
親戚が湖に突き刺さった状態の死体で発見されたのを聞いたかのような表情で店主が座っていた。
しかしその内面は逆なのだろう。
あまり付き合いの長くない益田には分からないかもしれないが、今の京極堂は確実に上機嫌である。
なぜそれが解るか。
単純に私達の付き合いが(犬猿の仲とか腐れ縁のようなものだとしても)長いからと云うこともあるが、やはり、甘いものである。
不吉な雰囲気を全身から醸し出すこの男であるが、実は普通なところもある。
尤も浮世離れした雰囲気と行動がそれを勝っている為、実際はそのギャップがかえって不協和音を生み出しているのだが。
-甘いものが好きなのである。
私達客が来る度に羊羹のような甘いものが出されるのは勿論、骨壷に干菓子を入れて常に手の届く場所に置いていたりする。
更に、普段は枯木のような男ではあるが・・・例えば細君が出掛けている時などはわざわざ一寸腰をあげ、甘い菓子と茶を持ってくる。
さて、話題は冒頭に戻りドーナツである。なんでもこのドーナツは都会のど真ん中、しかも10分も20分も列び買ってきたそうだ。
「なんだってそこまでしてドーナツを買う必要があるんだい?榎さんに頼まれたのかい?」
聞くと長い前髪をゆらゆらと揺らしながら益田独特の笑いを浮かべた。
「話すと長いんですけどね、榎木津さんが、ある時僕にこのドーナツを買ってこいと頼まれて。
それで僕ぁこれを並んでまで買いに行ったんですがね、ここの店、並んでいる最中にドーナツを一つくれたんですよそれが」
「それが相当美味しかったのだろう」
「あ、あぁそうです」
「そりゃメディアに広告も出さずに口コミだけで広がった店だからなぁ。しかもリピーターも多いと聞く。益田君、君も少なくとも三回、いや今日のドーナツも数えると四回かな、それくらいはあの店に行ってるんじゃないかね」
「そ、そうです。行った回数まで当たっています」
京極堂は『超能力』のようなものを使っているようにしか私は思えない。それとも榎木津のような能力でも身につけたのだろうか。
「なんでそんなことがわかるんですか?!」
「なんだってそんなことが解るんだい?!」
益田と私の声が被った。
「君はやっぱりおかしな能力でも身につけたのかい」
「まだそんなことを聞くのかい。本当に君は健忘症だね」
京極堂は益田から受け取ったドーナツの箱をあさりながら私を見た。
「じゃあ君は益田君の後でも付いてまわったのかい?そうじゃなければ人の行動なんて読めないぜ」
まったく不思議だよ、
京極堂の前では云わないようにしていた言葉を私はうっかり、呟いてしまった。
「この世に不思議なことなど何もないのだよ、関口君」
京極堂はドーナツをかじりながらそう云った。ドーナツの砂糖がはらはらと机の上に散った。
あぁまた私はこの男の操る言葉に飲み込まれてしまうのだろう。
20090112

青色一号

榎木津の手には毒々しいプリントの施された袋があった。中に入っている菓子もビビッドカラーの着色をされたグミだ。ペクチンやらゼラチン、着色料、香料やらで構成されている。色味もなにも毒々しいことこの上ない。
おまけにその菓子の形も酷く悪趣味なもので、線形、ミミズを象っている。色味自体は青や赤やピンクで幻想的、子供の喜びそうなものだが、大人にはどうなのか。
一本一本を人差し指で引っ張り出し、食べる榎木津を見ていた中禅寺が動き出した。榎木津の取り出したその一匹をひょい、と奪うとそのままそれを口に放り込んだ。
「甘いな」
「ミミズだから」
「あんた、虫は嫌いじゃなかったかい」
「僕が嫌いなのはカマドウマ。」
もう一匹グミを摘みながら中禅寺は榎木津を見た。
「僕は熊のグミの方が好きだよ」
「ゴールデン、ベアー!売り切れだった」
おぉうと嘆く榎木津は二匹程グミを口に放り込んだ。
「それにしても、この菓子、立派な匣でも買ってきて、そこにぎっしり詰め込んで関口君に渡したら驚くだろうね」
中禅寺もまた、榎木津の手元に手を伸ばした。
「良いね、今度買い物行くか。で、残ったらお前のそこの骨壺にでもいれとくか!」
「止してくれ、この間知人から貰った飴が入っている」
中禅寺は白い壺を揺らした。中身がカラコロと鳴る。
「このミミズも一緒に入れて」
榎木津はその壺の蓋を外し、そこにミミズグミ達を詰めはじめた。
壺にはきゅうきゅうにグミが詰まっている。
きゅう、と声が聞こえそうだ。
榎木津はそう云った。
20090225

梅と鳥

白や桃の梅の花が小さく小さく春の支度をしていた。
その花をヒヨドリやシジュウカラが啄んでいる。
僕は見上げた空に、ぽつり咲くその梅に顔を綻ばせながらその花に手を伸ばした。梅の花にまだ気付いていないだろうあの人達に一番に教えたくて、その花をひとつ、枝の先から頂いた。
指先に摘んだそれに顔を寄せると甘い香りがした。
道明寺。
あれは梅のお菓子ではなくどちらかといえば桜なのだが、春を、春の訪れを知らせる象徴なのに変わりないかもしれない。
自然と僕の足は町の和菓子屋へと向かっていた。
和菓子屋にはもう春のお菓子が並んでいた。僕は20個道明寺を買った。それから師匠の好きな干菓子も。
これから会う人達のうち、特に師匠は喜ぶだろう。大将は道明寺とこの小さな花に笑うだろう。関口先生はどうだろう。また少しずれた反応をするのかもしれない。そしてきっと友人達と面白い掛け合いを見せてくれるんだろう。
あぁ、思わず一人で歩いているというのに笑ってしまった。
指先に梅の花を持ち、菓子の入った袋を抱え、一人笑いを浮かべて歩くなんて関口先生よりもよっぽど怪しいかもしれない。春も近いのだし多少変でもいいだろうか。
さて、早く中野に行かなくては。
師匠と大将と先生の待つあの場所へ。きっと木場さんも、益田君も青木君もいる。敦子さんもいるだろう。
足元を見るとまだ草は少なく土が露見している。三寒四温なこの時期はまだまだ草は育たない。
早く春を、知らせなければ。
僕は歩く歩調を早めた。
20090216

日の光の一番近く

学業に勤しむ学生達。それに対して、私は寮の屋上へ続く階段をのぼっていた。
私は決して勉強から逃げ出した訳ではない。今日はどうにも気分が悪い。この具合のまま授業に出席しても恐らく何も頭に入ってはこない。だから敢えて休みを貰い欠席したのだ。
階段の踊り場で一時身を休める。日常、対して運動をしないこの体には階段を一気に登るのは疲れることだ。まだ若いというのに先が思いやられる。踊り場の部分は少し陰っていてひんやりとしていた。それに対するように階段は明るく日の光を受け入れ間接的な暖かさをこの場を通るかもしれない誰彼に提供していた。
ようやくついたその先。
屋上の扉は重苦しく閉じていた。閉鎖的なほの暗さを作りだす扉は所々塗装が剥げて錆ついていたり、中の黒い金属が露出している。
私はその様子を見る度に恐怖を感じる。この扉が牢獄の役割を果たしているように感じ、その錆が古く黴臭い空間を作りだしているという幻想に駆られるのだ。
私は決して捕まったままではいるものか。
扉に体重をかけるとぎぃと錆と錆のざらついた部分が摩耗する音が響く。この音に抵抗するように扉は重い。本当のところこの扉は古い為に開閉がしにくいだけなのだが、今の私には脱獄を逃さないぞ、と扉が抵抗しているようにすら感じる。抵抗に打ち勝て、その先にあるのは自由だ。
重い金属の扉はばたん、と大きな音をたてて開いた。外は薄く青空が光っている。風は黄色い花粉が舞っているかのように明るい。
扉を開けてしまえばもう何も怖くない。先程まで牢獄だった階段、踊り場、扉もただの寮の一部だった訳であり、本気で私を監禁するはずはないのだ。
しかしすっかり脱獄犯になりきっている私は誰もいないのを善いことに、両腕を大きく広げ深呼吸をした。自由の光はここにあり、とでも叫びそうだった。
何がその欲求を抑え込んだのか、それは誰もいないと思っていた現実が覆されたことが原因である。
「サボりかい?関口君」
そこに居たのは、私と同室の友人中禅寺だった。私は今しがた行っていた行動を恥じるよりも先に何故中禅寺がここにいるのかということに思考は働いていた。だいたい、中禅寺に私の奇行が見られていたことはどうでも良いことだった。これくらいの行動は榎木津という変な先輩の普段と比べればよっぽど普通なのだから。
「中禅寺こそ」
「僕は気分が優れないからここで休んでいたのさ。たまには日の光にでもあたってビタミンを作らないといけない。」
中禅寺はたまに馬鹿みたいなことを云う。楽しければ本当のことはどうでも良いのだから私もそれで良いと思う。
「僕だってそうさ。気分が良くない。でも一日のうち数分日光に当たれば十分だって聞いたぜ」
しかし律儀にそこを突っ込んで話題を展開するのが私は好きだ。
日光浴から今日はどこまで話は発展するのかが、私は楽しい。
「そんなことは知ってるさ。僕は本当は今日の生物の授業の光合成について植物になったつもりで考えているのさ」
馬鹿話になりそうな予感だ。私もその話に乗ることにした。
「僕はね、さっきまで捕まっていたんだよ、」
私の授業を欠席した理由はすっかり消え去り、言い訳となっていた。理由はすっかり綺麗に光合成によって言い訳に還元されてしまったのかもしれない。
屋上の床に寝転ぶとその横で人権について馬鹿なふりして語る中禅寺もすっかり元気に光合成を行っていた。
20090319

彼の一日

榎木津が机に足を乗せてだらしのない格好で窓の外を眺めていたが、それ、に気づき何気なく窓の外を眺めた。
二、三度瞬きをすると窓枠に手をかけて更に身を乗り出した。
その視線の先には関口がよろめきながら探偵社に向かって歩いている。目の悪い榎木津にも判るようなよろめき具合だった。
今日も猿みたいな猫背具合だ
ヒマを持て余している探偵は、にんまりとして先程まで弛緩させていた四肢を伸ばした。
榎木津は眉をあげ、整った顔を思い切り崩して窓から身を乗り出した。参上、と雄叫びをあげながら榎木津は関口の前へ窓から飛び降りた。関口は驚いて空を見上げる。口をあんぐりと開けたまま。

ひらり
関口は青空を横切る榎木津を見て思った。
空高くを指し示す指先に、しっかり伸ばされている足。そのフォームではいくら着地に成功しても足への大きな負荷により骨折するだろう。因みに失敗した場合は複雑骨折とか死に至るかもしれない。
ああ、綺麗な人だ。
しかし関口の心配も、人体の骨格の限界も飛び越えて榎木津は無傷で立っていた。
「え、え、え榎さん!」
「やぁ関!」
榎木津は関口を見る。
関口は座りこみ頭を抱えたまま榎木津を見上げていた。
「口を空けていても何もあげないぞ?」
ぽかんと口を開けっ放しにしていた関口は慌てて口を閉じた。
「ぱくぱくぱくぱく魚みたいだ」
「榎さん、あんたどういう体の作りしてるんですか!」
「関、僕は暇だった。やっぱりお前は面白い」
榎木津は関口の両肩を掴むとぐらぐらと関口を揺さ振った。
「あぅ・・・」
関口は酔ったらしい。焦点の定まらない目でうぅとだけ唸った。
「さぁ関、なにか面白いものを探しに行こう、まずは中野、それとも本権(本島の事である)のところにでも行こうか」
「え、榎さん。僕は・・・」
関口は、榎木津の探偵社に用事があってここに来たのである。なのにどうしてわざわざ中野に帰らにゃならんのだ。と思っていたが云わなかった。
弛緩した体を引っ張り起こされ関口は流されるように榎木津に腕を引っぱられていった。
「さぁ関君、もたもたしていると一日がもたついてしまうぞ」
結局その後、関口は榎木津に振り回されることになる。
太陽も沈んだ頃漸く中野の友人宅で酒を飲み始めた頃に関口は思った。はて、私は何をしに神保町に行ったのか。ぽかりと榎木津にどつかれる。酒やらなんやらでそれは飛んでいった。
酔っ払い達を横目に右党の家主は菓子をかじりながら外をながめ思う。なぜこいつらは下戸の家主の元でわざわざ酒を呑むのか、と。
20090301

三月三日の事

「ひな祭りだーお雛様だぞお雛様!」
榎木津は手に持ったひな人形を子供のように振り回している。その様子を見た関口はおどおどと榎木津を止めようとした。
「え、榎さん、あんまり暴れないでくれよ」
関口は相変わらず汗をかいている。関口は少なからずとも精神的に動揺しているのだ。
ぽとり
間抜けな音と共にひな人形の首が落ちる。榎木津は驚いた子供のような顔で呆然としている。
「あ・・・」
首のとれた人形をもち呆然とする榎木津はとても滑稽だった。益田がそれを見かけたらきっと嬉しそうに後に語るだろう。
「あ、あぁ・・・!人形の首が!榎さん、京極堂に怒られますよ!」
関口はわたわたと二十日鼠のようにせわしなく動き回る。先程からの関口の不安は当たってしまった。そうでなくとも良く分からない友人代表中禅寺の持ち物である。本人も恐ろしいが、何よりあの中禅寺の所有する人形(ひとがた)である。祟りや呪いのひとつやふたつ持っていそうな雰囲気がある。
流石の榎木津もその雰囲気を察して慌てている。人形の首をどうにか戻そうと試行錯誤していた。
「わかってる、今戻してる所ダ。もしものときは、」
「もしものときは?」
関口はなにか嫌な予感がした。
「関君に濡れ衣を着せようかな」
「・・・」
さらりと迷惑な謀を云う榎木津に関口は残念な方向性を持つ予感が当たってしまった、と思った。
ゆうらり
黒い影が慌てている二人の背後に忍び寄る。
「関口君がどうしたのかね?」
地獄の底から響くような重苦しいトーンで中禅寺は二人に話し掛けた。
「だから、濡れ衣を・・・あ。」
話し掛けている相手に気付いた榎木津は思わず口をつぐんだ。
「きょ、きょ、京極堂!いいから榎さん、早く謝りなよ!」
関口はわたわたと自分の事のように慌てている。顔色も赤くなったり青くなったりとても忙しそうだ。
「京極、申し訳ない、」
榎木津はぺこりと頭を下げた。
関口は自分が想像していたより遥かに榎木津が素直に謝ったため、案外素直だ!と目を丸くした。
「ん、なんのことが?」
中禅寺はまだ人形のことに気がついていないらしく首を傾げている。
「人形の首とれちゃった。」
榎木津は人形を中禅寺の目の前に掲げた。頭部の離れた本体が薄気味悪い。
その不気味な人形を見て中禅寺は顎をさすり、再び首を傾げた。数回人形を見て何か思い出したのだろう。両手をぽん、と打ち云った。
「あー、それ。それね、もともととれるんですよ」
思い出したように中禅寺は軽い調子で云った。
「なぁんだなら安心だ。よかったな、関君」
榎木津は関口に肩を回し、顔を見合わせた。関口は呪いやらの脅威からは逃れることができ安心した半面、納得いかないと云った顔をしていた。
「なーにが安心だ、だ。少しは反省なさい」
爽やかに笑う榎木津を見て、中禅寺は榎木津の額を叩いた。ぱしり、と良い音がした。
「はーい」
少し赤くなった額をさすりながら榎木津は反省したのかしていないのか、良く分からない返事をした。
関口は人形の今後の首はどうしていくべきだろうか、などと一人呟いて首と本体を見比べていた。
それに興味を持った榎木津もまた、人形を逆さにしたりしている。
人形を気にかける男二人を余所に、中禅寺は煙草をふかしていた。
そして少し哀愁のようなものの雑じった目で外を眺めていた。
---折角の雛祭だと云うのに肝心の女の子がいないのはどうなんだろうね。
中禅寺は空に散っていく煙草の煙を目で追いつつ、妹の敦子や妻の千鶴子を思った。
20090303

猫と器

私が京極堂を訪れるとやはり店の外には骨休めの札が掲げてあった。私は裏に周り、中禅寺宅へお邪魔する。
戸を叩いても返事はない。京極堂の細君は出掛けているのだろう。仄かに罪悪感を感じながらも私は戸を開く。京極堂のものらしき下駄が並んでいる。この様子を見ると、京極堂は戸を叩いたのか私だとなんとなく予想している事が窺える。玄関に入り戸を閉めて、京極堂がいるであろう本だらけの部屋に向かった。
「京極堂・・・」
私に挨拶すら返さず京極堂はどこかを眺めていた。
京極堂の視線の先を辿ると先には大きめの土鍋がひとつ置いてあった。土鍋の中には何か異物がひと塊。その異物を私も眺めていると、それは小さく動いた。
気のせいか、と思いもう一度見直す。やはりその異物はうごめいていた。小さく膨らんでは萎む。
そして、それは「にゃあ」と云って大きな欠伸をした。その様子はまるで柘榴のようだった。それはまさしく京極堂の飼い猫柘榴であるのだが。違う、私の云いたいことはその猫が柘榴なのかそうでないのか、京極堂の飼い猫なのかなどという事ではない。
私が云いたいのは、なぜこの猫が鍋の中に入っているのだろうかということである。
「京極堂、なんで君、猫が鍋に入っているのだい。君は猫を煮込んで食べる生活習慣をもっていたかい?」
僕の云ったことを愚問だ、とでも云いたげに京極堂はこちらを見た。
「愚問だねぇ。少なくとも僕はこの猫は食べないよ、将来は化けるからね。ところで関口君、君は猫鍋なんて知っているかい?」
猫鍋、私は聞いたことはたぶん、ない。
「やはり、知らないか。」
「妖怪なのかい?」
「いいや、ただの観賞のためさ」
「君、いくら飼い猫だからって観賞用と云うのはどうなんだい」
「僕は柘榴にこの中に入れなんて強要はしていないさ。勝手に入っていったのさ」
「にゃあ」もう一度柘榴が鳴いた。鍋の中にすっぽり収まり、気持ち良さそうに喉を鳴らした。飼い主はその愛猫の姿を見て微笑んだ。気が付けば私もその愛らしさに思わず微笑んでいた。
「なんでこんな狭い所に入るんだろうね」
私は鍋からはみ出ていた猫の尾を手で追いかけながら云った。尾は不規則に動く。緩やかな動きだから手で捕まることは安易だが、次はどこへ動いていくのかは予測しがたい。
「落ち着くんじゃないか、尤も今は君が構うから落ち着いていないようだけどね」
「酷いなぁ。尻尾も振って、落ち着いているじゃないか」
「よく見てみなさい。尻尾の先の動きがせわしないだろ。いらついているようだよ。それから柘榴の目が黒目がちになっているだろ、これはこいつのアドレナリンが出ている証拠さ」
柘榴に構いながら私は聞いていたが、京極堂がなにを云いたいのか。よく解らなかった。
「それが何か問題あるのかい?」
「鈍いねぇ、君は。本当に理系か。アドレナリンで瞳孔が開いていると云うのは、こいつが攻撃体勢に入ろうとしているという意味さ。もうそろそろその手を離したほうが」
京極堂の声が途切れた。京極堂の予言通りに私は、柘榴に攻撃されてしまった。私の手には猫の噛み跡、記憶には猫についてが深く深く刻まれた。
「だから云ったのに」
京極堂は呆れたように云うが、もう少し早く云って貰わなければ解る訳がない。

「もっと早く云って呉れば善かったのに!」
「関口君だってよく解らない男から撫でられたら嫌だろ」
「う・・・。」
尤もな言葉に言葉が途切れる。
いつもこうだ。なんだかんだでこの男には丸め込まれる。まるで目の前にある鍋のようだ。
「本当、君は鍋のようなやつだよ」
「鍋なのは関口君のほうじゃないかね。君は闇鍋みたいだよ」
「なんだって僕が」
「蓋を開ければよく解らない」
「そんなこと云ったら君も榎さんも闇鍋だろ」
鍋、鍋。そんな風に鍋のことばかりを云っていたからだろうか。腹がぐぅと音をたてた。それに返事をするように柘榴がにゃあと鳴いた。京極堂は目を瞬き、私は赤面する。このような毎日に私はここはまだ日常なのだと感じる。

鍋から猫が飛び出ていった。
20060417

(あちらのお客様からです)

一人しんみりと酒を飲んでいるとドラマのようなシチュエーションに出会ってしまった。
静かに目の前のテーブルに小さなグラスが置かれた。
しかし、グラスの中に入っていたのは洒落たカクテルではなく、ただの四角い豆腐がちょこんと置いてあった。
「あちらのお客様からです」
バーテンダーの指した先には見覚えのある、幼なじみの探偵が華麗にウインクをきめていた。
(榎木津、てめぇ・・・)
そう言い出して飛び掛かりそうな体を抑え木場はグラスを持ち、榎木津の座る方へと向かった。
「木場修よかったな、これで仲間ができたぞ」
苛立つ木場を余所に榎木津は云った。そしてグラスの縁を爪でちん、と弾いた。
「豆腐はてめぇの頭じゃねえのか!?」
まるでやくざのような顔と雰囲気で木場は小声で、怒鳴った。流石にTPOは弁えている。拳で交わす挨拶も自重されている。
「木場修が寂しそうだったから友達を作ってあげたんだ」
木場に榎木津はしんみりと言い聞かせた。
「なぁにが友達だ」
「だってそっくりじゃない、お豆腐!」
子供のような物言いに先程まで抑えていた拳は再び固く握られる。
ここまで木場はだいぶマイナスの感情を榎木津に抱いているようにも思えるが、実際は榎木津を疎ましく思っている訳でもない。
幼少からの長い付き合いから考えても好いているのは明らかなことである。
しかし何故こんなにも木場の拳が疼くかと云うと、本能的なものなのかもしれない。昔から顔を突き合わせれば喧嘩をしている。
喧嘩を、したいのだ。
「さぁ、木場修!その友達を早く食べちゃいなさい」
榎木津はグラスを木場に押し付けるように近付けた。これは早く食べろという催促なのだろう。
「早く食べちゃって、外に暴れに行くぞ!」
女の子をまとめて惚れさせてしまいそうな顔で榎木津は云った。
見えているのかよく解らない目は黒目がちで獣のようだった。
促されるがままに木場は豆腐に箸を刺し、食べた。
「木場修が共食いしたぞー」
「煩い!」
20090420

そう、牛乳。

牛乳が大量に在るのだ。
ここは牛乳屋でも牧場でもなく只の町の中に建っているビルヂングだ。ここのビルヂングの主は牛乳はおろか、特にそういった類の買い物はしない。そういった生活用品食料品などの面白みに欠ける買い物をしてくるのは基本的にそこで働く者達だ。また基本的にそこで働くのは二名の青年だが、時折臨時でもう一人やってくる。そんな奇特な人物は他ならぬ僕である。
ところで何故こんなにも牛乳があるのか。まずひとつの原因は僕、ふたつめの原因は安和寅吉みっつめの原因は益田にある。まとめて云うならば前に述べた者達全員が牛乳を買ってきてしまったという事。
この牛乳の量はいくら毎日飲むといえども飽きそうだ。それ以上の問題として、冷蔵庫に入らない。そのため緊急措置として氷の入った金盥の中に牛乳瓶を浸している。
困ったように寅吉はその牛乳を見て苦笑いをした。主にここでの家事などを行う者としてその反応は仕方ないことだろう。そして顎に手を添えて彼は何か考えている。ううん、だとか唸る様は職人じみていた。
「あ!」
きらり、と寅吉の瞳が光った。先程まで八の字だったげじまゆはにこにことご機嫌を描いている。そしていそいそと顔に似合わない、薄桃色の割烹着を身につけながら云った。
「今日はフルコースですよ!さぁさぁ手伝って」
こうして寅吉は料理を、僕は益田とともにデザートを作ることになった。デザートを作る、一見簡単そうなお題ではあるがひとつ条件があった。必ず牛乳を使うこと。それもたくさん。
僕が1番最初に思い付いたものはホットケーキだった。なんとなくあの洋風探偵を思わせる食べ物だったからだ。しかしこの提案は益田探偵助手によって却下された。
却下の理由は
「あの人はもそもそしたもの好きじゃないですよ」
そして寅吉の
「もっと牛乳を消費する努力してください」
といったことである。
だけれども僕ごときの凡人には榎木津の食らい付きそうな菓子は思い付かない。もそもそしていないもの、思い付かない訳ではないが、近藤や僕のような奴の簡単お手軽なものが受けるとは思えないのだ。
「僕が他に思い付くのは牛乳いれた寒天位です。益田さん、助手なんだし何か思いつかないんですか」
少々投げやりに益田に話を振った。すると、
「牛乳の寒天。良いじゃぁないですか」
なかなかやりますね、などと言いながら僕の肩を叩いた。何かをやった覚えはないがとりあえず褒められたらしい。
「そんなんで大丈夫ですかね・・・」
こんな庶民派、普通代表の僕の提案である。このおかしな人達に喜んで貰えるのだろうか。不安になった。
「僕はともかく本島さんの作ったものです。大丈夫です!」
不安である。
心のうちが表情にでていたのだろうか、益田は僕の方を見るとごまかすようにケケケと笑った。
そんな不安は気にせずに僕たちは台所へ向かった。益田は小ぶりな鍋と、寒天を持って、手を振るのと同じ要領でこちらへ振りかざした。袋からはみ出た寒天はふるふると震えていた。
僕も持ってきた牛乳瓶をひとつ手にとる。ひんやりずしりとした質量の硝子の中で牛乳は揺らめく。たぷん、と云う音は牛乳の粘度が水より高いことを暗に示す。その感覚を楽しむように大きく瓶を動かしながら運んだ。
寒天を数分水につけて戻す。その間に計量カップで適量の牛乳と砂糖を鍋に入れ、鍋を火にかける。寒天がある程度柔らかくなったら小さくちぎり、鍋にほうり込む。そして焦げないようによくかきまぜながらそれらを煮立たせていく。ここで良く混ぜないとだま状の焦げが出来るのだ。
小さな泡ができはじめ、寒天の固まりはみるみるうちに小さくなっていった。沸騰したのを確認し、火から鍋を引き離した。
後は鍋の中身を平たい容器に入れ、冷蔵庫で冷やすだけである。零れないように気をつけながら僕は鍋の中身を鍋に入れ、冷蔵庫にそっとその容器を置いた。
「本島さん手際いいですねぇ」
一息ついた所で益田が云った。すっかり僕の中から忘れられていた為少しびっくりした。そこで僕はふ、と思いを巡らした。そういえば僕と益田でデザートを作るんじゃなかったか?
「益田さん何かしましたっけ?」
「ケケケ」
どうやら笑ってごまかされてしまったようだ。
「本島さん、牛乳とってください!」
呼ぶ声がする。そちらを振りかえると三角巾を付け、割烹着姿でおたまを持った寅吉がいた。
割烹着の男は受け取った牛乳を鍋に注ぎ、コンソメを加えた。暫く待つと甘い匂いがする。クリームシチューだろう。
そういえば、ともうそろそろ固まっているであろう寒天を取りに冷蔵庫を開けた。僕の後ろから益田が顔を覗かせてどうですか、などとしきりに尋ねてくる。
「しっかり固まっていますよ」
と云うと、ほっとしたように
「二人で頑張ったかいがありますね」
と云った。何を二人で頑張ったのか。
夕飯のシチューやパン、更にデザートが出来上がった頃、タイミング良く榎木津もやってきた。髪があちらこちらに跳ねている。この様子を見る限り今まで眠っていたのだろう。
「おはよう」
やはり眠っていたらしい。もう夕飯の時間だというのにまだ彼の中では朝のようだ。
「先生、よーうやくお目覚めになったンですね。おはようございます」
寅吉は割烹着を畳みながらそう云った。流石榎木津歴が長いだけに、慣れている。榎木津は締まりのない挨拶を終えると鼻をくんくん、とさせて「ご飯」とだけ云った。寝て起きて、食事。まるで動物だ。
「デザートも?」
「はいはい、本島君が作ったのがありますよ」
寅吉の紹介に僕は照れ臭くなって少し身体をちぢこませた。僕の恐縮した様子にはたいして目もくれず、榎木津はそのまま益田を睨んだ。
「マスカマはなンにもしてないぞ!」
サボりの子だ、サボりの。と何回か喚くのに対して益田は胸を張って僕もちゃんと手伝ってますもん、と口を尖らせて云った。
「益田さん、対して何もしてないじゃないか!」
寅吉もそう云った。本当に何もしてなかったように思う。
「僕は寒天を袋から出したんです」
益田は上目がちに云った。それから鍋もだしましたよぅと付け加えた。それからおかしな声をあげ、
「あぁ、もう本島さん、そんな風に見なくても良いじゃあないですか」
と云った。
本日の夕食は牛乳尽くしだった。寅吉お手製クリームシチュー、いつの間にか用意されていたフランスパンに牛乳をたっぷり使ったミルクロール、飲み物も勿論牛乳だ。そしてデザートには僕、と益田が作った牛乳の寒天。

(いただきます)
20090510

味噌汁、御飯、漬物。

僕は盆にそれらを乗せて、早朝から隣人宅へ運んでいた。
面倒臭い。
一人分の朝食であればあと10分は多く眠っていられただろう。
冷静に考えるとこの賭けに勝ってもあまり得をしていないような気がする。しかし約束してしまったのだ。
僕は寝間着姿で外に出た。11月にもなると寒い。先程作ったばかりの味噌汁は勢いよく湯気を立てている。僕が適当に作った味噌汁でも熱いうちに食べた方がまだ美味しく食べることができる。冷めないように早く近藤に届けよう。
「近藤、近藤、朝飯!」
僕は近藤の自宅のドアを叩いた。どうせなら近藤の家で一緒に食べてしまえば良い、と持ってきた二人分の食事が少し重い。早く出て来て欲しい。
「なぁんだよ。こんな早朝から」
近藤は昨日の約束を忘れているようだった。否、寝ぼけているだけだろう。この男は自分に利益のあることは忘れ難いのだ。
「あ・さ・め・し」
盆を揺らしながらそう云った。近藤は目を丸くして、ぽん、と手を打った。
「あぁ、そうだった。本島大明神様、朝晩の御飯!」
嬉しいなぁ、と近藤が満面の笑みを向けてくる。愛らしいのだが、両腕を広げ、こちらに向かって来る近藤を制止した。
「味噌汁が零れるから、抱擁は後にしてくれ」
嬉しいのだが、折角作った朝食に降り懸かりそうな惨事は避けたい。近藤はそうだ、そうだな。と独り言を云いながら盆を持ってくれた。
物だらけの部屋をするりと通り近藤は机に盆を置いた。一方で僕はまだ玄関で靴を脱いでいるところだった。靴の置場がないため、近藤の下駄を端に避けているところで近藤は戻ってきた。そして、先程の続きとでも言いたげに両腕を広げた。さっき『後にしてくれ』と頼んだ抱擁を交わす。
「お早うございます」
近藤は僕を包み込みながら云った。そういえばまだ挨拶をしていなかった。
早いね、とこれから今日一日を生きる者への謝意の言葉。
和やかな一日になりますように。腕に少し力が入る。
おはよう、と僕も返した。
どうにもきまりが悪い。小っ恥ずかしいのだ。この空気を吹き飛ばすように僕は味噌汁に思考を戻した。
「こ、近藤。味噌汁が冷めるって」
そうだ、折角急いで運んで来た味噌汁が冷める。
「熱いうちに食べないと」
それに会社もあるのだ。いつまでものんびりしていたら今度こそクビになりそうだ。さぁ御飯御飯、と僕は近藤の背中を押した。
湯気を立てている味噌汁やご飯が並んでいる。漬物は急いで切ったから繋がっているかもしれない。
自分の普段食べるもの。今まで幼なじみとして、頻繁に食事を共にしている。しかしこうして近藤に食事を一週間も作るという状況になると、僕の料理が近藤の口に合うかどうかが気になる。
近藤は僕のささやかな心配を余所に、---いただきますと云い食べ始めた。
黙々と近藤と僕は朝食を食べた。一番最初に漬物を摘んだ。どうやらちゃんと切れていたようだ。味噌汁もご飯に合う味に出来ている気がする。中の具は豆腐のみで寂しいが。
近藤をちらりと見る。
味噌汁をすすり、それからご飯に箸を進めていた。だけど美味いのか、どうなのか。近藤は何も云わない。美味しいのか、と尋ねたかったが、ぐっと堪えた。
近藤は箸を置いて漸くこちらを向いた。そして、ごちそうさま!今夜の夕飯も楽しみだなあと云った。
20090909

吸い物、御飯、煮物、梅干し。

朝と同様、本島はこれらを盆に載せて運んでいた。向かう先は幼なじみであり隣人の近藤の家だ。
本島は醤油の香りを漂わせて歩く。そのうち一つは煮物の匂いだ。鶏肉や根菜を醤油と砂糖で煮込んだ肉じゃが風の味付けをした煮物である。もう一つは吸い物。中味が寂しかったため、夏の余りの素麺を具に入れている。
ひたり、と音がした。本島が振り向く。そこには近所の野良猫が物欲しそうにねぅ、と鳴いた。その猫はここの文化住宅辺りに住み着いている猫だ。高田馬場の駅前で見かけることもある為、この文化住宅の地域というよりは、すっかりこの街の猫なのかもしれない。
「お前にあげる程無いんだよ、」
ごめんよ、と独り言程度に本島は云った。小さな声だったし、猫に通じるはずもない。しかし、猫は名残惜しそうに、もう一度ねぅと鳴くと本島に背を向けてどこかへ行ってしまった。
「近藤、生きてるか?」
本島は近藤の家のドアを叩いた。もちろん近藤が生きているということを前提に聞いた。
三回程呼びかけて、漸く扉の向こうからむぅぅ、とか云う声が聞こえた。寝ていたのだろう。
「おぅ、本島か」
やはり出てきた近藤は寝起きのような顔だった。顔の輪郭がむくんでいる。
「お前の朝は夕方か?こんばんは、おはよう。夕飯の時間だぞ」
両手塞がりの本島は盆の端を近藤に押し付けた。夕飯を零したりしないような慎重な動作ではあったが、それに対する近藤の反応は大きい。小さな目を見開いて、---おお本島よ、危ないではないか!と云った。
「大袈裟だなぁ」
盆を持ったまま本島は云った。眉は下がっているものの、目尻は下がり、と口角はあがっている。
近藤は口を大きく開けて笑った。そして、
「さぁさぁ飯だ。」
と云った。やはりその動作は大袈裟である。常日頃から動作が大きいのだ。
「そうだよ。御飯御飯」
本島も同じような調子で返した。近藤は盆の上に乗っている夕食を眺めた。
「今晩は煮物か。鶏肉に人参、大根。味付けは醤油と砂糖とみた!吸い物は、素麺入ってるな!あとは御飯に梅干しっ」
「ご明答。因みに煮物は生姜も入ってるよ。玉葱は切らしていたんだ、悪いな」
「ううん、」
近藤は少し間を開け、少し申し訳なさそうに云った。
「作って貰えるだけで俺は有り難くてしかたない」
本島はそれを聞くと照れ臭そうに笑った。そしてわざとらしく唇を尖らせて云った。
「じゃあ、有り難く食べろよ。猫様への献上も断ったんだぞ」
「あぁ、近所の白いのか?」
近藤は以前してみせたように、顔の横で招き猫のように手を上げ、そしてにゃーと云った。
本島は気味悪そうにそれを見る。
「お前の場合、猫というよりは大きな熊猫だよ、大熊猫」
失礼だなぁ!と近藤は云った。
そしてもう一度にゃーにゃー云い、一人で笑った。
20090917

年末だ。
まったく予定もないというのに、心の奥が妙に浮かれる。
落ち着かない。
こうして座っていても仕方がない。僕はなんとなく台所へと向かった。台所は殺風景なのだが、一点だけ鮮やかな色彩があった。先日仕事場で貰ってきた林檎だ。
二、三個貰ってきたのは良いがまだ手をつけていなかった。
そういえば今日も近藤は自宅に篭っているだろうか。きっといるだろう。僕はそう確信し、林檎を一つ、手に取るとむきはじめた。林檎はかなり大振りだった。男の僕が一人で食べるのには若干大きい。指を切らないように、慎重に、図面を引く際の鉛筆の線を思い出す。
皮をむき終えると包丁を突き刺して林檎を半円に割る。白い林檎の果肉から果汁が、芳香が、弾けた。林檎の割面の中央には琥珀色に光る蜜がたっぷりと入っていた。
また、中心には核のように茶色の種が何個か入っている。種は一つ割れていた。先程包丁で林檎を切った際に引っ掛かったのはこれが原因なのだろう。
種の存在は食べるという人間中心から見た生命活動においては邪魔なものである。林檎にとって生殖活動生命を残すのに重要な意味を持つものであるが、人間の貪欲な食欲を前にはただの生ゴミになるにすぎない。僕や近藤のようだ。僕は生命活動の重要なものとして存在する繁殖活動を無視して生きている。僕等は種を棄てて生きている。そんなことを、林檎の種を流しの中に落としながら考えた。
種をくり抜き、林檎を皿の上に置く。考え事が長すぎたのかもしれない、白い林檎の果肉が空気に触れて茶色くなり始めていた。
虚しいのか。
「虚しくなんか、ない」
僕は誰に話しかけるでもなく云った。虚しくなんてないのか?こうして一人空に話し掛けている、そのような僕こそ空しいのではないか。林檎をすべて切ってしまうと僕は皿を持ち、近藤の元へ向かった。
近藤は年末だろうがいつもどうりだった。普段と異なることといえば描いている紙芝居の内容位であった。僕はそれをみて、浮ついた心が元の場所に戻り、また、空になった精神が満たされていくのを感じた。
近藤はやはり適当な挨拶をし、僕の手元の林檎に目を付けた。
「お、林檎じゃないか!」
近藤は食べても良いのか、と聞きながら皿の上の林檎に手を伸ばした。まだ僕が返事をしていないというのに林檎はすでに近藤の口の中だった。尤もこの林檎は近藤と食べようと思い持ってきたものである。先程の近藤の申し出を断る方がおかしいのだ。
僕はまだ返事もしていないじゃないか、と苦笑いを浮かべながら皿の上の林檎を掴み、食べた。
程よく水分が含まれていて、歯をたてると果肉から果汁が溢れた。まだ新鮮な林檎はぱき、と音をたてた。
口の中でさらにかみ砕くとしゃりしゃりと味覚の粒へと形を変えた。空気を含みながらの咀嚼により、口腔の果物は芳香を口全体に広げる。芳香は口から鼻へ抜け、僕の五感を満たしていった。
林檎は蜜も、水分も酸味も甘味も十二分に美味しかった。種を守るだけの緩衝材には勿体ない。
種なんてなくとも美味しく腹を満たしてくれれば十分なのだ。
腹が満たされれば生命維持に必要な幸せの三分の一は満たされる。
林檎を食べながらそんなことを考えた年末であった。
20091226

茶と最中

「俺のとっておいた最中がなくなった」
休日の早朝、近藤は眠っている僕を呼び出し、それだけ云った。
毎日半ドンのような生活を送っているといえども、丸一日休みの日というものは余りない、だから今日は昼までだらだらと眠っていようと思っていた。
それだというのに空気を読まない近藤は僕の元へわざわざやってきて最中がなくなったからどうにかしてくれなどと云う。
今の僕にとっては最中なんてどうでも良いことだ。
どうして僕にそれを云う。
近藤の頭には餡でも詰まっているのか。
「なんで、そんなこと聞くンだよ。僕はお前の最中なんて知らないからな」
「本島、お前最中、俺の最中、食べただろ!」
どうやら近藤が云いたかったのは僕が最中を食べたのではないかということだった。
「最中の包み紙がごみ箱に捨ててあったんだ」
「だからなんだよ。お前が間違って食べたんだよ、近藤。第一普通に包み紙は捨てるだろ」
「いいや。俺は、捨てない」
近藤は踏ん反り返って自慢げに云う。自慢することではない。
「俺はなぁ、ゴミだと思うまで菓子の包み紙だろうが埃だろうが捨てないのだ。だから、見てみろこの部屋を!何が要るものか要らないものなのか俺は分からないものが多いから、物で溢れている!」
なんじゃそりゃ。
ようするにそれは部屋が汚いということではないか。
さらに近藤は尤もらしい口ぶりで話を続けた。
「つまりだ、つまりこんな風にゴミをごみ箱に捨てるということをしたのは本島だと我輩は思うのだ」
「あ、」
確かに、そう云われればそうだ。
というか今更ながら僕はその最中を食べちゃったのを思い出しただけなのだが。
しかし今更、言いづらい。何も云うことが出来ず口ごもっていると近藤は鬼の首を取ったかのような顔で云うのだった。
「俺の推理どうりじゃあないか」
この最中のそもそもの出所は僕であり、僕がこの最中を近藤におすそ分けした、という背景がある。
そんな背景があろうとも、僕のあげた最中を楽しみにしていたかもしれないということと、彼が最中を食べ損ねたという事実には変わりはない。
目の前の熊さんにそんな同情をしてしまうのはこいつに対する愛着のようなものなのだろうか。
だから、僕は素直に謝った。
「近藤、ごめん。家にあるの、また持ってくるからさ、」
僕がそう頭を下げると、近藤はまったく気にした様子もなくからからと明るく笑った。そして
「折角だし、二つ持って来て呉れよ」と云った。
「二つ!?」
一人で二つも最中を食べるのか。熊のような男だから違和感はないが、他人からの貰い物に対して二つ寄越せというのだろうか。
「俺が一人で食べるんじゃないって。お前のぶん」
「僕の?」
確かに一人で最中二つは多いよな、と納得しつつももう一度尋ねた。近藤はうんうん、と急須に茶葉を入れながら頷いた。
「茶でも飲みながら二人で食べた方が楽しいだろ」
やおら立ち上がる近藤は僕の頭に手を乗せて立ち上がった。
近藤はやかんを持ち水道へ向かった。年季の入ったやかんは底は黒っぽく変色し、へこみや傷だらけだ。
「まぁ、そうだよな」
「そうなのだ」
無駄に潔くやかんを構える近藤の後ろ姿を数秒見つめ、僕も最中を取りに一旦自室に戻った。
自室は近藤の部屋と比べると物が余りない。近藤のと云わず他人のそれと比較したとしても物がない。こざっぱりというか、がらんどうと云う表現の合う部屋だ。
最中はちょうど二つ残っていた為、僕は袋ごと最中を持ち、近藤の元へと帰った。
がらんどうから近藤の部屋に入るとやはりごちゃついていると思う。
恐ろしいことに慣れてしまっている僕にはどちらも落ち着くのだ。
見慣れた隣人の自宅の戸を僕は開いた。中からは聞き慣れた近藤の声が僕を迎える。
「おかえり」
茶を蒸らす近藤の姿があった。
僕はなぜか面映ゆい気持ちで、すっかり口馴染んでしまった
---ただいまを返した。
近藤は急須から茶を注ぎながらおつかれ、と云った。
「疲れる程のことはしてないよ」
最中二個運ぶだけだしさ、と僕は袋を近藤に手渡した。
20090704

八十八夜-01

何度も戸を叩く音がする。おれはくつ下もはかずに急いで玄関に向かった。
「修ちゃん、遊びにきたぞ!さぁ早く長ぐつはいて出かける」
言う事が訳分からないのは元々だけれど、今日も訳が分からない。よく見ると礼二郎は黄色いレインコートに黄色いながぐつをはいている。
「おい、外の雨ならやんでるんじゃんか」
「やんでるから長ぐつ。ぬかるみはげでげでぬるぬるだぞ。くつがどろっどろになるだろ」
「なら、そんな所入んなきゃいいだろ」
おれが吐き出すように云うと礼二郎はなぜそんな事を云うのか、とでも言いたげにこちらをじとりと見た。
「イヤだ、ボクはドロドロで遊ぶ」
礼二郎は唇を尖らせ、云った。
「いつだってそんなの出来るだろーが」
「いやだ。オマエがいて、ボクがいて、雨あがりだなんていつでもないから」
「・・・わかったよ」
ながぐつをひっぱり出してきて右足左足を収めた。そして外に飛び出した。
「修ちゃん、ここ!」
「うげ、引っぱるなよ。転ぶっ」
「だーからレインコートきたのに。ボク転んでも大丈夫」
その日、家に帰る頃にはおれもあいつも泥だらけだった。顔についた汚れもぬぐわずに笑う礼二郎を見て、キレイなのにもったいないと思った。

数年後
昨晩からこちらに向かう嵐で外は横殴りの雨だった。何度も戸を叩く音がする。
俺は靴下も履かずに急いで玄関に向かった。
「木場修、出かけるぞ」
戸を開けるとそこには黄色いレインコートに黄色い長靴を履いた榎木津がいた。
「嫌だ。お前が居て、僕が居て、大雨だなんていつでもないんだ。珍しいんだぞ。だから、出掛けよう?」
首を傾げる動作に仕方ないなと云いそうになった。昔っからそうだ、巻き込まれる。
「なに恥ずかしいこと抜かしやがる」
目の前に褐色が覆い被さってきた。何かと思い落ち着いて確認するとそれは俺のコートだった。
「さぁ外行くぞ。そこのコートでも着なさい」
こいつが来たのならあらがったって巻き込まれるのだ。
「ちっ、仕方ねぇ」
コートを羽織りながら舌打ちをした。勿論長靴も忘れずに。
「あの馬鹿助手はどこいったんだよ」
馬鹿助手というはこの馬鹿探偵に弟子入りしたいと警察を辞めてまで来た益田という酔狂な男のことである。
「馬鹿だなあ、こんな日に外で遊んでくれるのは木場修と昔から決まっているじゃないか。ねぇ、修ちゃん」
「気色悪ぃ」
肩を組もうとする榎木津を受け流しながらも長靴を履いた。嵐の日に外に出掛ける準備は完璧だ。外に出ると酷い暴風雨が俺達に向かったが気になんてしていない。玄関を後にした。
「なぁお前昔もこうして俺の所に来なかったか?」
風の音に負けそうだ。大声で聞いた。
「うーんどうだったかな。どっちだって良いだろ。何にしたって、昔から僕らは変わらないって事じゃないか。良いことだね」
余裕そうに答える幼なじみは泥だらけだった。それでも、綺麗だと思った。

20090312

八十八夜-02:日曜日にリンス

「木場さん、お風呂沸きましたよー。服は乾かしとくんでそこに置いといて下さい」
浴室の扉を開くと異世界だった。
猫脚の白いバスタブ。
色とりどりの薔薇の花びら。
何故俺はこんなところに、と木場は思った。榎木津が原因だ、と言い切りたいところだがそうでもないのがさらに木場を苛立たせた。因みに榎木津はいまだ、外の嵐を楽しんでいるらしい。
俺は飽きた、と木場が云うと榎木津は僕はまだまだ飽きない。木場修が先に帰るまでは絶対に飽きないと云ってまだ外を歩いている。
木場は舌打ちをした。決して嫌な気持ちではないのだが、余りにも乙女趣味なこの風呂場は武士などと呼ばれている三十路男には少々辛い。
しかし榎木津の馬鹿な誘いで大雨の中を歩き風邪をひくなんていうのは御免である。冷え切った身体のままでは風邪をひいてしまうだろう。木場は逃げ出したい気持ちを抑えて浴槽に身を浸した。
足先が湯に触れると赤や桃色の薔薇の花びらが揺れた。上半身を湯に浸せばふうわりとシャボンが出来て浴室に浮かぶ。
なんで猫脚の風呂が探偵の事務所にあるんだよ、なんで突然の来客相手に、しかも俺なんかにこの薔薇風呂なんだよ・・・馬鹿探偵のような見た目お人形さんみたいなのが入って漸く絵になるが、俺みたいのじゃあ、と木場は独り言を云った。
そもそも猫脚のバスタブというのはどこかのお金持ちが使うものである。風呂に入り終わったら使用人あたりがバスタブを持ち上げ残り湯を手動で捨てるという様式の筈だ。木場は風呂の底をのぞいてみた。
底にはよくわからない排水管がごちゃごちゃに繋がっていた。流石榎木津だな、と思いながら木場はそれを見なかった事にした。
気持ちを切り替えて、木場は身体やら髪を洗い始めた。シャンプーにしても石鹸にしてもなにもかも良い香り。普段白い四角い石鹸で髪も身体も一緒くたに洗ってしまう木場は少し浮かれた。
旅行先で位でしか使わないリンスまでおいてある。これで少しは針金のような髪もましになるものなのか。乱暴にポンプを押し桃色のリンスを髪につけた。
リンスを洗い流し、自分の髪に触れてみる。心なしか滑らかに指が通る。針金みたいだった髪もしなやかだ。
風呂にもう一度浸かると気分は完全にお金持ちのようだった。
花畑にいるような心地のまま木場は風呂を出た。にやける口元を引き締め、傍らにあるタオルで身体を拭いた。やはりタオルも心地良く、花畑にいるようだった。
はたして風呂の湯は抜いておいたほうが良いのか。ぱりっと乾いた開襟に腕を通しながら木場は聞いた。
「おーい、風呂の湯は・・・」
すべてを言い終える前に返事は返ってきた。
「後で掃除とかするんでそのままでー、ってうわぁ、先生お帰りなさいっ」
木場よりも少し長く外の嵐を楽しんでいた榎木津が漸く帰ってきたようだ。もしかしたら俺のために少し時間をずらして帰って来たのかと木場は思ったが、その邪推は云わなかった。
「木場修、僕の風呂は良かったろう?さてさて僕も風呂だ」
豪快に服を脱ぎ捨てて行きながら榎木津は風呂場へと向かっていく。風呂に向かう路には点々と靴下やブラウスが落ちていた。
「さぁーて、和寅、お風呂から出たら酒が飲みたい」
風呂場から榎木津が首だけだして和寅に注文している。
「へいへい、もう買ってありますぜ、先生。先に呑んでますか?」
「お、馬鹿探偵の給仕にしちゃあ気が利くじゃないか」
木場は徳利片手に三角錘の横に座った。窓の外が良く見える。外は酷い天気で、花見には程遠い。
「桜はないですけど、風呂に使う薔薇でも浮かべたらどうですかねぇ」
和寅も酒を片手にしている。
「良い湯だった!」
榎木津が風呂からあがったようだ。緋色の襦袢を適当に纏った格好である。
「お、僕にも頂戴」
どこから持って来たのか、タンブラーを木場に差し出す。酒を入れろということらしい。酒を注ぐ為に身を寄せると榎木津からもリンスやらの香りが広がった。
これだけでも十分に花見気分だな、と木場は思った。

20090313

八十八夜-03:さくらさくら

祭の後のようだ。宴の後の名残が散らばっている。昨晩は榎木津と木場の宴がだらだらと続き、轟々と風と雨のなる夜だというのに不安はなかった。笑い声や歌の聞こえる中、和寅は不思議と安心して眠っていた。
朝は、日差しと鳥の声で和寅は目覚めた。物語に出てくる情景のような朝であった。いつものように竹箒を持ち、ビルの階段を降りていく。
頬に水分を感じ、木漏れ日を見上げると葉桜が揺らいだ。先日まで二晩続いた嵐はようやく止んだ。桜はすっかり落ち、水溜まりに満開に咲いていた。
先日の嵐により神保町の探偵社に泊まっていた木場と酒を呑むだけ呑んで大騒ぎしていた榎木津はまだ寝ているようだ。和寅は探偵社の外に落ちている桜を箒で払いながら雨上がりの空気を大きく吸った。
肺の中まで外の青が入り込んでくるようだった。青葉の匂いもつん、と香った。まだ幾分残る水溜まりなどが気温の上昇を抑えているらしく、もう太陽が昇りだいぶ経つというのに肌寒い。
「涼し・・・」
誰に云うわけでもなく、和寅は云った。箒を胸に抱きながら探偵社へ戻っていった。
探偵社へ戻るとちょうど帰ろうとする木場に鉢合わせた。
「お!お帰りですか」
「あー、馬鹿によろしく伝えといてくれ」
木場はまだ昨日の酒が抜けていないのか、少しふらつきながら云った。
和寅が室内に入り、先程までそこにいたであろう客人の様子見に窓に近寄る。それを追い抜かすように榎木津がその横を走った。ばん、と窓枠が外れるのではないかという勢いで榎木津は窓を開けた。そして身を外に乗り出す。危ないですよという和寅の忠告も耳に入っていないようだ。
「木場修、今度は雨じゃあなくて」
榎木津は片手を振り回しながら云った。不安定に体は揺れ、窓枠はきしきしと唸る。
「あぁ?」
木場は良く聞こえなかったらしく、耳に手をあてる動作をした。
「今度は雨じゃなくて、花見に行くからな」
体を揺らしそれを云うと、榎木津の上体が大きく揺らいだ。
「うぁ」
「馬鹿っ」
木場の大声に和寅は目を丸くした。一方で榎木津はというと、元より持ち合わせた身体能力でバランスを取り直し、けろりとしていた。まったく、と木場は頭に手をあてた。
「じゃあ、次には桜のとこでね」
バランスを崩し、危険だと思ったばかりだというのに早速榎木津は手を大きく振った。その後ろで和寅は榎木津に抱き着くように押さえている。
「酒は持ってこいよ」
木場は背を向け、手だけをひらひらと振った。
花見の準備は早めに取り掛からなければ、和寅は思った。
宴がまた始まる。

20090426

朝食:一日目

味噌汁、御飯、漬物。
僕は盆にそれらを乗せて、早朝から隣人宅へ運んでいた。
面倒臭い。一人分の朝食であればあと10分は多く眠っていられただろう。冷静に考えるとこの賭けに勝ってもあまり得をしていないような気がする。しかし約束してしまったのだ。
僕は寝間着姿で外に出た。11月にもなると寒い。先程作ったばかりの味噌汁は勢いよく湯気を立てている。僕が適当に作った味噌汁でも熱いうちに食べた方がまだ美味しく食べることができる。冷めないように早く近藤に届けよう。
「近藤、近藤、朝飯!」
僕は近藤の自宅のドアを叩いた。どうせなら近藤の家で一緒に食べてしまえば良い、と持ってきた二人分の食事が少し重い。早く出て来て欲しい。
「なぁんだよ。こんな早朝から」
近藤は昨日の約束を忘れているようだった。否、寝ぼけているだけだろう。この男は自分に利益のあることは忘れ難いのだ。
「あ・さ・め・し」
盆を揺らしながらそう云った。近藤は目を丸くして、ぽん、と手を打った。
「あぁ、そうだった。本島大明神様、朝晩の御飯!」
嬉しいなぁ、と近藤が満面の笑みを向けてくる。愛らしいのだが、両腕を広げ、こちらに向かって来る近藤を制止した。
「味噌汁が零れるから、抱擁は後にしてくれ」
嬉しいのだが、折角作った朝食に降り懸かりそうな惨事は避けたい。近藤はそうだ、そうだな。と独り言を云いながら盆を持ってくれた。
物だらけの部屋をするりと通り近藤は机に盆を置いた。一方で僕はまだ玄関で靴を脱いでいるところだった。靴の置場がないため、近藤の下駄を端に避けているところで近藤は戻ってきた。そして、先程の続きとでも言いたげに両腕を広げた。さっき『後にしてくれ』と頼んだ抱擁を交わす。
「お早うございます」
近藤は僕を包み込みながら云った。そういえばまだ挨拶をしていなかった。
早いね、とこれから今日一日を生きる者への謝意の言葉。和やかな一日になりますように。腕に少し力が入る。おはよう、と僕も返した。どうにもきまりが悪い。小っ恥ずかしいのだ。この空気を吹き飛ばすように僕は味噌汁に思考を戻した。
「こ、近藤。味噌汁が冷めるって」
そうだ、折角急いで運んで来た味噌汁が冷める。
「熱いうちに食べないと」
それに会社もあるのだ。いつまでものんびりしていたら今度こそクビになりそうだ。さぁ御飯御飯、と僕は近藤の背中を押した。
湯気を立てている味噌汁やご飯が並んでいる。漬物は急いで切ったから繋がっているかもしれない。
自分の普段食べるもの。今まで幼なじみとして、頻繁に食事を共にしている。しかしこうして近藤に食事を一週間も作るという状況になると、僕の料理が近藤の口に合うかどうかが気になる。
近藤は僕のささやかな心配を余所に、---いただきますと云い食べ始めた。
黙々と近藤と僕は朝食を食べた。一番最初に漬物を摘んだ。どうやらちゃんと切れていたようだ。味噌汁もご飯に合う味に出来ている気がする。中の具は豆腐のみで寂しいが。
近藤をちらりと見る。
味噌汁をすすり、それからご飯に箸を進めていた。だけど美味いのか、どうなのか。近藤は何も云わない。美味しいのか、と尋ねたかったが、ぐっと堪えた。
近藤は箸を置いて漸くこちらを向いた。そして、ごちそうさま!今夜の夕飯も楽しみだなあと云った。

20090909

夕食:一日目

吸い物、御飯、煮物、梅干し。
朝と同様、本島はこれらを盆に載せて運んでいた。向かう先は幼なじみであり隣人の近藤の家だ。
本島は醤油の香りを漂わせて歩く。そのうち一つは煮物の匂いだ。鶏肉や根菜を醤油と砂糖で煮込んだ肉じゃが風の味付けをした煮物である。もう一つは吸い物。中味が寂しかったため、夏の余りの素麺を具に入れている。
ひたり、と音がした。本島が振り向く。そこには近所の野良猫が物欲しそうにねぅ、と鳴いた。その猫はここの文化住宅辺りに住み着いている猫だ。高田馬場の駅前で見かけることもある為、この文化住宅の地域というよりは、すっかりこの街の猫なのかもしれない。
「お前にあげる程無いんだよ、」
ごめんよ、と独り言程度に本島は云った。小さな声だったし、猫に通じるはずもない。しかし、猫は名残惜しそうに、もう一度ねぅと鳴くと本島に背を向けてどこかへ行ってしまった。
「近藤、生きてるか?」
本島は近藤の家のドアを叩いた。もちろん近藤が生きているということを前提に聞いた。三回程呼びかけて、漸く扉の向こうからむぅぅ、とか云う声が聞こえた。寝ていたのだろう。
「おぅ、本島か」
やはり出てきた近藤は寝起きのような顔だった。顔の輪郭がむくんでいる。
「お前の朝は夕方か?こんばんは、おはよう。夕飯の時間だぞ」
両手塞がりの本島は盆の端を近藤に押し付けた。夕飯を零したりしないような慎重な動作ではあったが、それに対する近藤の反応は大きい。小さな目を見開いて、---おお本島よ、危ないではないか!と云った。
「大袈裟だなぁ」
盆を持ったまま本島は云った。眉は下がっているものの、目尻は下がり、と口角はあがっている。近藤は口を大きく開けて笑った。そして。
「さぁさぁ飯だ。」
と云った。やはりその動作は大袈裟である。常日頃から動作が大きいのだ。
「そうだよ。御飯御飯」
本島も同じような調子で返した。近藤は盆の上に乗っている夕食を眺めた。
「今晩は煮物か。鶏肉に人参、大根。味付けは醤油と砂糖とみた!吸い物は、素麺入ってるな!あとは御飯に梅干しっ」
「ご明答。因みに煮物は生姜も入ってるよ。玉葱は切らしていたんだ、悪いな」
「ううん、」
近藤は少し間を開け、少し申し訳なさそうに云った。
「作って貰えるだけで俺は有り難くてしかたない」
本島はそれを聞くと照れ臭そうに笑った。そしてわざとらしく唇を尖らせて云った。
「じゃあ、有り難く食べろよ。猫様への献上も断ったんだぞ」
「あぁ、近所の白いのか?」
近藤は以前してみせたように、顔の横で招き猫のように手を上げ、そしてにゃーと云った。本島は気味悪そうにそれを見る。
「お前の場合、猫というよりは大きな熊猫だよ、大熊猫」
失礼だなぁ!と近藤は云った。
そしてもう一度にゃーにゃー云い、一人で笑った。

20090917

年末だ。
まったく予定もないというのに、心の奥が妙に浮かれる。落ち着かない。
こうして座っていても仕方がない。僕はなんとなく台所へと向かった。台所は殺風景なのだが、一点だけ鮮やかな色彩があった。先日仕事場で貰ってきた林檎だ。
二、三個貰ってきたのは良いがまだ手をつけていなかった。そういえば今日も近藤は自宅に篭っているだろうか。きっといるだろう。僕はそう確信し、林檎を一つ、手に取るとむきはじめた。林檎はかなり大振りだった。男の僕が一人で食べるのには若干大きい。指を切らないように、慎重に、図面を引く際の鉛筆の線を思い出す。
皮をむき終えると包丁を突き刺して林檎を半円に割る。白い林檎の果肉から果汁が、芳香が、弾けた。林檎の割面の中央には琥珀色に光る蜜がたっぷりと入っていた。
また、中心には核のように茶色の種が何個か入っている。種は一つ割れていた。先程包丁で林檎を切った際に引っ掛かったのはこれが原因なのだろう。
種の存在は食べるという人間中心から見た生命活動においては邪魔なものである。林檎にとって生殖活動生命を残すのに重要な意味を持つものであるが、人間の貪欲な食欲を前にはただの生ゴミになるにすぎない。僕や近藤のようだ。僕は生命活動の重要なものとして存在する繁殖活動を無視して生きている。僕等は種を棄てて生きている。そんなことを、林檎の種を流しの中に落としながら考えた。
種をくり抜き、林檎を皿の上に置く。考え事が長すぎたのかもしれない、白い林檎の果肉が空気に触れて茶色くなり始めていた。虚しいのか。
「虚しくなんか、ない」
僕は誰に話しかけるでもなく云った。虚しくなんてないのか?こうして一人空に話し掛けている、そのような僕こそ空しいのではないか。林檎をすべて切ってしまうと僕は皿を持ち、近藤の元へ向かった。
近藤は年末だろうがいつもどうりだった。普段と異なることといえば描いている紙芝居の内容位であった。僕はそれをみて、浮ついた心が元の場所に戻り、また、空になった精神が満たされていくのを感じた。近藤はやはり適当な挨拶をし、僕の手元の林檎に目を付けた。
「お、林檎じゃないか!」
近藤は食べても良いのか、と聞きながら皿の上の林檎に手を伸ばした。まだ僕が返事をしていないというのに林檎はすでに近藤の口の中だった。尤もこの林檎は近藤と食べようと思い持ってきたものである。先程の近藤の申し出を断る方がおかしいのだ。
僕はまだ返事もしていないじゃないか、と苦笑いを浮かべながら皿の上の林檎を掴み、食べた。
程よく水分が含まれていて、歯をたてると果肉から果汁が溢れた。まだ新鮮な林檎はぱき、と音をたてた。口の中でさらにかみ砕くとしゃりしゃりと味覚の粒へと形を変えた。空気を含みながらの咀嚼により、口腔の果物は芳香を口全体に広げる。芳香は口から鼻へ抜け、僕の五感を満たしていった。
林檎は蜜も、水分も酸味も甘味も十二分に美味しかった。種を守るだけの緩衝材には勿体ない。種なんてなくとも美味しく腹を満たしてくれれば十分なのだ。
腹が満たされれば生命維持に必要な幸せの三分の一は満たされる。林檎を食べながらそんなことを考えた年末であった。

20091226

窓の外は綺麗な青で染まっていた。
秋とはいえども、窓越しの日光は室内に熱を作る。
「あぁ暑い」
探偵がそう云った。
窓から差し込む光を浴びて、けだるそうに椅子に座っている。頭の上に組まれた手をだらりと解し机に突っ伏した。
すると一番窓に近い給仕の青年が窓を開けた。
外からの風が机の上にあった紙を浮かす。
探偵は頭を少し持ち上げた。細長い手を動かし、飛んでいきそうな紙を掴んだ。紙の内容は確認できない。
重要なものなのか違うのか。
しかし彼はそういったことにはそれほど固執しない人間だ。
ゴム鞠のように跳ね上がり、皺が寄るのを気にせずに紙を掴んだまま窓枠に手をかけた。
探偵は大きな声で云う。
「今日は良い天気だ!」

探偵のお仕事

榎木津は大きな籠いっぱいに服を詰め込んだ。部屋中にばらまかれていた衣類の一部だ。
籠から服がはみ出していたが、榎木津は気にせずに籠を運んだ。
当然のことながら靴下やハンカチーフなどの服飾小物は幾つか床に落ちた。
榎木津はそれらを落ちたらその都度拾いながら洗濯機のある場所まで運んでいった。そして洗濯機の前に籠を置く。
籠を置くと、ばらりと中身は落ちた。床に落ちた赤いスカーフを見て榎木津は眉をひそめ、うぅんと唸った。
スカーフを拾い、乱暴に洗濯槽の中に投げ入れる。更に籠の中の衣服も手荒に投げ入れた。
水を入れ、洗剤を振りかけるように入れた。そして洗濯槽を回すと、ぐるぐる渦を巻く様子を確認した。洗濯機が正常に動く事を確認すると、洗濯槽の横に付いているローラーを回した。洗濯物を絞る訳でもないため特に意味はない。
数回ローラーを回してから急に榎木津の動きが止まった。つまらなそうにローラーを見つめる。
飽きたのだろう。
ローラーへの興味が失せた榎木津の目の前何かが通過する。
洗濯槽から発生したシャボンの泡だ。
回りの光を乱反射させ、七色に光るシャボンが榎木津の大きな瞳に映る。海面活性の泡はほんの一瞬で音もたてずに消えた。
「きえた」
それだけ云い、榎木津は洗濯機に背を向けた。大股で三角錐のある机に向かい、これまた大袈裟な動作で椅子に座った。
椅子に座り、目の前の机に広げてある紙を見た。仕事をするのかと思いきや、特にそれに触れることもなく新聞を手にとった。
新聞をはらはらめくっていると、寅吉が机に湯呑みを置いた。ほんのり湯気の立つそれの中味は緑茶である。寅吉は急須と自分のものであろう湯呑みを持っている。
「お茶ですよ」と言いながら自分の湯呑みに茶を注いだ。
茶を飲んでいる間も洗濯機は唸っている。
榎木津は濯ぎの為に立った。
濯ぎが回転の止まった洗濯機の中は濁った水の上に少しの泡が浮いている。シャボンを飛ばしていた時と比べると見栄えはよろしくない。その汚水を排水し、流す。ごぼごぼと水は不可視的な管を通り消えていった。
汚水が殆ど消えると今度は濯ぎの為の水を溜め、再び洗濯機は鳴きはじめる。渦を確認し、榎木津は再びの休憩に入った。
また数分経過し、同じ事を繰り返す。一回目の濯ぎの水は半透明に濁っていた。先程と同様に汚水を流した。水をもう一度溜め、洗濯機の中に渦を作った。
机に戻ると半分程残っていたお茶はぬるくなっていた。榎木津はそれを飲み干して、頭の後ろで手を組んで目を閉じた。そのままで伸びをすると背骨が鳴った。
目を閉じたままの榎木津の耳には洗濯機の音の他に、近隣の生活音が入ってきた。
干した布団を叩く音や、遅れて鳴く蝉の声、車の走る音。
すべては雑音(ノイズ)である。
しかしそれらの雑音に榎木津はなぜか安心する。良く耳を澄ませば遠くでさえずる鳥の声まで聞こえた。
「秋ですねぇ、先生」
目を閉じて遠くの日常を聞いていた所に突然、寅吉の声が入り込んだ。榎木津は驚くこともなく目を閉じたままうん、と云った。
それから数秒も経たないうちに、洗濯機の音も止まった。
ようやく榎木津は目を開き、そちらに向かって行く。
洗濯機の横に放置していた籠をちょうど良い場所へ移動させた。
洗濯槽の中の殆ど透明な水を排水させ、中の洗濯物を取り出した。
洗濯物というのはやはり絡まる物である。シャツの袖を捕まえて引っ張りだそうとしても、他の、例えばスラックスなどに引っ掛かっている。さらにスラックスというものは他の小さな物を引っ掛けているのでなかなか解けにくい。
若干の葛藤はあったものの洗濯物を引っ張り出すと、やっとローラーの活躍が始まる。ローラーの絞り機に簡単に形を整えた服を挟む。服を挟み込んだまま、ローラーを回すと水がだらだら落ちた。
力が少しいる作業だが、榎木津は楽しそうにそれをこなした。
余り挟み過ぎるとローラーが回らなくなる。そのため榎木津にしては丁寧に洗濯物を畳み、ローラーを回す。水気がある程度切れるとその服などを傍らに用意していた籠に投げ入れていった。
籠に山盛りに積められた洋服類は膨張していないため、籠から溢れてはいない。榎木津は肩が凝ったらしく、首をぐるりと回した。
水気がある分重くなった籠をよいしょと持ち上げて榎木津は運んだ。外にある物干しまで運ぶ。物干しの下には寅吉が待っていて、衣紋掛けや、洗濯挟みを持って来ていた。
榎木津は白いシャツを大きく広げた。皺の付かないようにシャツを広げる。弾けるように飛んだ水滴が空を反射して水色に光る。
衣紋掛けにシャツを掛けて、竿にかける。風があるため、そこをさらに洗濯挟みで止めた。
干す為に手を竿に伸ばすと差し込む太陽で視界は真っ黄色になる。視線を落とせば先程の太陽の光が目に焼き付いていた。寅吉は目眩ましにあったようだと思った。次は目を閉じて上を向く。そして手際良くそれらを干していった。
「これで最後ですね」
寅吉は最後に一枚残っていたタオルを干しながら云った。
「あぁ、秋の風も心地良い。良く乾きそうです」
榎木津は風に煽られながら揺れる洗濯物の横で伸びをしながら云った。
「うん、ホント。良い天気だ!」
手を天に向かい伸ばしながら云った。
榎木津は神保町の風景を洗濯物の間から視る。その風景はどこまでも透き通っているようだった。
20090912

お年玉

「新年明けましておめでとう」
益田が薔薇十字探偵社のドアを開けると共に榎木津の元気な声がした。そこには榎木津の下僕の一人である本島と、住み込みで働く和寅がいた。
本島は少し居心地悪そうに端に座っているが、実際のところはたいして居心地が悪いとは思っていないらしい。榎木津に云わせてみると本島には関口に似ているところがあり、若干挙動が不審というか、首のすわらぬ赤子のように不安定なところがあるらしい。
和寅はというと榎木津に頼まれたのだろう、おしるこの入った椀を盆に乗せて榎木津に運んでいるところだった。
「おや、益田さん。今日は先生からプレゼントがあるみたいだ」
和寅は至極幸せそうに云った。和寅はプレゼントというよりも長年仕えてきた榎木津の心使いに喜んでいるような様子である。
その和寅には目もくれず、榎木津はおしるこを食している。椀を傾かせずずずっとおしるこを飲み干すと榎木津は立ち上がった。
「さぁさぁ、皆集まったことだ。探偵からのお年玉を受け取りたまえ!」
まず最初に本島が受け取る。それに続いて和寅、そして最後に益田が受け取った。
受け取ったのはやけに分厚い茶封筒だった。重さ的にも厚さ的にも札束を連想させる。
興奮に頬を紅潮させる益田の横で、本島は少々青ざめている。
「何入ってるんですか?」
本島は恐る恐る榎木津に聞いた。榎木津は踏ん反り返り、ふん、と鼻を鳴らした。
「開けてみればすぐわかる。すぐにお前たちの役に立つモノさ」
益田は先程までかさかさと封筒を振っていたが、すぐにそれを止めて封を開けはじめた。
その横で本島や和寅も同時に開封し始める。
「んー?」
益田が開封し、中身を取り出す。
すると中からは、たくさんのお守りやお札が出てきた。
「お守り?」
「そうだ!すぐに役に立つしいいだろう?」
お守りには学業成就、縁結び、交通安全のほかにもなぜか安産お守りまで入っている。
「安産・・・?」
「あぁ、神社で配っているお守りをぜーんぶ貰ってきた。下僕たちの幸せのためだからな」
もう一度榎木津は鼻を鳴らす。
呆れるような有り難いような中途半端な気持ちである。同じ金額なら現在の意味でのお年玉が良かったかも、という気持ちもある。
しかしその一方で幸せを願われて、純粋に嬉しくもある。
結局のところ、下僕たちは榎木津の幸せオーラにほだされてしまうのだ。
(幸せな一年になりますように。)
20090101

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