ルチスパ ほれさせたけりゃやさしくしやがれ!

ルチスパです。

豊かな黒髪。
闇夜に溶け込む漆黒の帽子とスーツ。
時折、光が闇に射し込むように白い鳩とシャツが輝いて眩しい。
さて、そんな出で立ちをしているロブ・ルッチという男はスパンダムお気に入りの部下だった。
彼に対し芽生えさせてはいけない感情を胸の内に燻らせているが、その感情を……知っては、伝えてはいけない。
そんなもの、面倒臭い。スパンダムは臭いものに蓋をするように、胸の内から溢れ出そうとしている感情から目を逸らしていた。

モノトーンで統一されたルッチとは対照的にスパンダムは胸元が緩く開いたシャツを着て、まとまりの悪いパステルカラーの髪をしている。
自分自身への嫌悪感はないが、特に自己愛が強い方ではない。どちらかといえばスパンダム自身の愛情は権力や武力装備に注がれており、ロブ・ルッチへの愛着もそれに近いものである、と思い込んでいた。少なくとも今朝起きた厄介ごとまでは。
その厄介ごとはどこで起きたか。常日頃からトラブルメーカーのスパンダムの周りではおかしな出来事ばかり起こる。
しかし、今日のトラブル……エニエス・ロビーで一番のビックニュースかつゴシップの発祥は、スパンダムが寵愛して止まない殺戮兵器ロブ・ルッチが生んでしまった。

穏やかなエニエス・ロビーの朝。小鳥や鳩がさえずる暖かな陽射しの心地いい朝。因みに鳩はロブ・ルッチ氏の鳩である。
ルッチは相棒の鳩 ハットリを側に携えながら朝一にスパンダムの元へ現れた。そして開口一言、とんでもない爆弾を落としていった。
「スパンダム長官、おれはあなたを好いている」
はぁ?とスパンダムは目をひんむいてルッチを見た。朝っぱらから頭でも打ったのか……スパンダムはハットリと共に鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。
「あなただってそうでしょう」
ルッチは驚きで目を丸くするスパンダムの反応も気に留めず、スパンダムに近づいて行った。目を見開いたままスパンダムはルッチの威圧的な全てを押し通してしまいそうな態度に飲み込まれ、固まっている。
「あなたはおれを好きだ」
ルッチに一方的な愛を言い渡され、スパンダムの思考はついに停止した。
はぁ?という声すらでない。
殺戮兵器にしては柔らかな、しかし不穏すぎる視線がスパンダムを打つ。
逃げたほうがいい、と全身を包み込むビリビリした空気から察したが、身体が思うように動かなかった。
「スパンダム、長官」
「うぁっ!」
ぐい、とスパンダムの身体が持ち上がった。ルッチがスパンダムの胸倉を掴みあげたのだ。
あぁ、ルッチよ次に惚れた相手に愛を紡ぐならもっと優しくしてやれよ、とスパンダムは霞む意識の中で願った。
スパンダムが不運だったのはサイファーポール最強の男に惚れられた事……もあるが、それ以上に不運なのはその場にCP9メンバーが出揃ってしまっていた事だろう。
スパンダムはルッチへの愛着を全員の前で暴露された後、胸倉を掴まれ、思わず目をつむった。
殴られるのか、とも思ったが強い衝撃はこない。
しかし、控えめな抱擁の後、唇に冷たく柔らかいものが触れた。
「……!」
何だ、とスパンダムが片目をゆっくり開けば、最悪の事態が目の前で起きていた。
触れるだけの口付け……ではあるが、人前で唇を奪われてしまったのだ。
「何しやがる!」
スパンダムは突然の出来事に頭が真っ白になり、気が付けばルッチの両肩を全力で突き放していた。
ルッチはなぜ怒られているのだろうか、とでも言いたげな顔で呆然としてスパンダムを見つめていた。
もう一歩近寄ろうとするルッチに対してスパンダムは近寄るな、と低い声でルッチを睨みつけた。
「セクハラだわ」
カリファは眉根を寄せて冷たくいつもの台詞を放った。その高い凛とした声にスパンダムは我にかえり周りを見渡す。
「お、お前らぁ、これは絶対に外で言うなよ!分かったか!」
そしてスパンダムはルッチを先頭に全員を喚きながら部屋から追い出した。部屋からCP9達を追い出す途中からは涙声になっていた。
「ぜぇったい、言うなよ!」
涙を拭いながらスパンダムは一言釘をさす……が、人の口に戸は立てられぬ。
ましてフクロウの手にかかれば噂話は24時間以内に島全域に広まる。
そこら辺の感染症の炎症なんかよりも、いつまでも人の胸の奥の奥にじわじわとしたわだかまりは残る。だから、噂話は厄介だ。
もっとも、そんなゴシップなんていつか嘘だったなどといって忘れ去られる筈……であった。
スパンダムはルッチと距離を置いてすべてなかったことにすれば終わると考えていたのだが、ルッチがそれを許さなかった。四六時中離れたいスパンダムと、四六時中一緒にいたいルッチ。
どちらが成功するか、なんて体力能力比べれば結果は考えずとも明白である。
結局、街中を歩けばルッチが隣に来てしまう。避けようにもつねに彼の方が一歩上手だった。

「噂になってるようじゃのう」
長椅子に座ったカクはコーヒーカップを傾けながら言った。その向かい側の執務机ではスパンダムが頭を抱えたまま、げっそりと俯いていた。
「なんなんだあのしつこさは。あんなにしつこいなら本っ当に諜報部員にぴったりだ、我ながら人選センスに驚くぜ」
自身への皮肉交じりのスパンダムの呟きに対してカクはやや仰け反った姿勢のまま答えた。
「長官も面倒臭い男に惚れたもんだ。可哀想に」
その言葉にスパンダムは大きく目を見開いて手で机をたたいた。
「はぁっ!?」
そんなスパンダムに対しカクは呆れたように手を広げる。
「何言ってンだ!」
スパンダムはふたたび机を叩いた。ひっそりと端で湯気を立てる珈琲の水面が揺らいだ。
そんなの、とスパンダムは続けた。
「そんなの、おれがルッチに惚れてるみたいじゃないか……!」
段々とその声は小さくなっていく。わなわなと震えるスパンダムの手。
口元に添えた手を辿れば少しだけ赤く色付いた肌が見える気がする。
「なんじゃ気づかんかったのか」というカクの声は届いていないのだろう。
飼い主の異変も気にせずにパォォとファンクは鼻でスパンダムの頭を撫でる。
スパンダムは真っ赤な顔を隠すように腕で顔面を覆いうずくまった。
認めたくない。スパンダムは俯いたまま歯を食いしばった。ルッチは強いから気に入っているだけだ。胸の奥で何度同じ言葉を否定の言葉を反芻しても記憶に染み付いた先日の口付けが蘇ってしまう。キスも、抱きしめられた時の彼自身の淡い体臭に対しても嫌悪感はない。
むしろ。

スパンダムはそのままうぅ、と唸ることで次の考えを強制的に停止させた。
答えは殆ど見えている。
しかし、それを認めてしまったら巷の噂話は本物になってしまう。
両思い、愛し合う関係。
結構なことじゃぁねぇか!とも思うが、相手はあの小生意気な態度の部下ルッチである。
かかか、と頬の熱が上がる。
マスクで顔の大半が隠れてはいるものの、スパンダムは顔を隠すようにして、カクとジャブラが寛ぐ自分の執務室から飛び出した。
……しかし、そこから飛び出したところで日中のエニエス・ロビーから自室に戻り仕事をサボる気にはならない。
火照る頬を冷ますようにスパンダムは散歩をすることにした。
こんな感情の乱れの有無に関わらず、業務中の息抜きに散歩することはよくある。
もっとも、理由は息抜きであり、決してルッチに惚れた腫れたという色恋沙汰ではない事は確かである。スパンダムはルッチを思考から追い出すために頭を振りため息をつくと、歩き慣れた道を進んでいく。
すると、見た事のある人影が対面から近付いてくるのが見えた。嫌な予感がする。大抵こんな時の予感は当たるのだ。
おそらく目の前の人物はスパンダムが今一番会いたくない、否、正しくは会うには気まず過ぎる人物であった。シルクハットと鳩のよく似合う彫りの深い整った顔立ちの男は、ロブ・ルッチだ。
自然な態度でいれば大丈夫だと自分自身に言い聞かせながらスパンダムはにや……と微笑みを作った。
本人は微笑みながら挨拶しているつもりらしいが、その笑顔はぎこちなく、ルッチを意識しているのが側から見ていても伝わってくる。まだ冷めていない頬の火照りがマスクに見え隠れしていた。

そろそろ、おれを意識してくださっているかと思ったんです。
よく通る低音がスパンダムの耳をくすぐった。この場には二人きりだ。
そう思えばスパンダムの気分はふわりと浮ついた。
スパンダムは一歩、ルッチに近付いた。
ルッチとの距離は半径1メートルもない。スパンダムは手を伸ばせば届く距離でルッチを見上げた。
今までであれば、そして人前なら尚更こんな風に彼と距離を詰めることはなかった。
ましてや、あんな一方的に感情を押し付けられ、警戒をしていたのだから。
しかし、ある意味あの口付けは二人の関係性を変えるきっかけであったともいえる。
もっとも、その気持ちの距離の変化をスパンダム自身はまだ認めておらず、考えあぐねていた。
でも、と頭上の男は話し始める。いつもならば肩の上で騒がしい鳩が近くにいない。
「珍しいですね、あなたから近付いてくるなんて」
さんざん人に付きまとった者の言うことか、と睨み付けるが意味はないだろう。
この威嚇に意味はない、スパンダムは分かっているが上辺だけの威嚇をした。このまま素直になるつもりはない。
「勘違いするなよ」
低く落ち着いた声色がルッチに届いた。紫の髪の奥に潜むスパンダムの瞳は獲物を捕らえる獣のように鈍く光っている。
ここで急に攻められたら負けるのは理解しているが、今のルッチは強引に抱き着いたりはしてこないとスパンダムの勘が告げていた。
他人に見せつける必要もない。
だから突拍子もないことはしてこないはずだ。
スパンダムは、じっとルッチを睨み付け、一歩後退った。意を決したように喉を鳴らし拳を握る。
「お、お前と、付き合ってやる」
スパンダムの言葉に今度はルッチは鳩が豆鉄砲を食らったようなぽかんとした顔をした。
ただし、とスパンダムの言葉は続く。
「試しに、だ!」
まだ状況理解をしていないルッチは腕をだらんと下に垂らし口を開けたままスパンダムを見つめていた。
呆気にとられているルッチを面白そうに眺めながら、腕を腰にあてて反り気味にスパンダムは言った。
「試用期間だから変なことはするなよ。惚れさせたけりゃ、優しくしやがれ」


「惚れさせたけりゃ、優しくしやがれ」
「分かりました」
分かりましたと言ってみたものの、具体的に何をすれば良いのだろう。
惚れさせたけりゃ、優しくしやがれ、というスパンダムの注文にルッチは首を傾げた。
優しくするとは具体的にどういった行為を指すのか。
この場でこの男を抱きしめてみるべきか、とルッチは首を傾けたたままじっとスパンダムを見つめ、無言でスパンダムに一歩近づいた。
「お、おい、なんだ……」
ルッチは何を考えているのか分からない表情をしていた。じりじりと距離を詰めてくるルッチに対して恐怖感を覚えたスパンダムは応戦の姿勢をとり、ルッチと向かい合う。
緊迫したエニエス・ロビーの昼下がり。
これから戦いが始まらんばかりの雰囲気で、仮だとしても恋人同士という穏やかで幸福に満ちた空気感は微塵にも感じられない。
「る、ルッチ!まて、早まるな!」
このままでは殺られる、と思ったのだろう。スパンダムは出し抜けに大声をあげた。
「なっ、何するつもりだ」
「あなたをこの場で抱きしめます」
その問いかけに対しルッチは当たり前だと言わんばかりに答えた。
なんで?! と叫ぶスパンダムに対比するようにルッチは冷静な表情をしている。
「それは……恋人同士といえばまずはハグですよね。やさしく、という事ならまずはハグからだと思いまして」
さらり、とルッチは答えるがスパンダムにだって言い分はある。お前なぁとスパンダムはため息をついた。
「おれだって心の準備ってもんがあるだろ」
「心の準備、ですか」
ルッチはスパンダムの言葉を頭の中で反芻するように、声に出して繰り返した。あまり意味を理解していないだろうな、とスパンダムはルッチの目を上目遣い気味に見て察する。
「そうだ、この間だってそうだ。突然き、キスとか抱きしめたりってのは……その、正直戸惑う」
スパンダムはルッチにされたことを思い出し、気恥ずかしくなりながら続けた。
「本当に惚れた相手が出来たらこんなことするなよ」
「はは……」
スパンダムの言葉にルッチはひく、と片眉を上げる。気の抜けた笑い声に、戸惑いと呆れが入り混じった表情を浮かべ、口を開く。
「本当に惚れた?」
そしてルッチは低く怒りを込めたような声でスパンダムの言葉を繰り返した。
「あ、あぁ。」
鈍感なスパンダムにはルッチの声が低くなった理由も釣り上がる眉の意味も分かっていなかったが、少なくとも彼の機嫌を損ねてしまったことは察していた。
日々のごますりの経験からこういった感情の動きを読み取る能力はあるらしい。
ルッチは本当にスパンダムに惚れている、が冗談、若しくは一過性の気持ちの誤作動と受け取られてしまっているのだろう。気持ちを伝えても伝わらない。
いっそのこと振られて失恋した方がまだマシだ、と思った。
「おれは、おれが惚れているのは」
ルッチの手が強くスパンダムの肩を掴んだ。急に強く出てきたルッチにスパンダムは戸惑いと恐怖に身をすくめた。
「ひっ……!」
優しくしろと言われた矢先に乱暴なことをしてしまっている。感情と行動の矛盾に挟まれて、ルッチの表情が苦痛に歪んだ。
「すみませんでした、何でもありません」
ルッチはスパンダムの肩から手を離すと、スパンダムに背を向け、その場を後にした。
「は……?」
彼にしては珍しい。スパンダムはバタバタと人間味溢れる足音を立てて走り去るルッチを見送る。

スパンダムは未だ釈然としない顔でルッチを見送った。少しだけスパンダムの心の隙間風の風向きが変わる。
何が、とは形容しがたい。
しかし、少なくともスパンダムの鳩尾には物足りない気持ちが居座っていた。
「なんなんだ、あいつは」
釈然としない。中途半端なところに置き去りにされれば、その原因のルッチを追いかけてみたくなる。
しかしまだ仕事中だ。スパンダムは自分自身に言い聞かせると、元来た道へ足を踏み出した。

自室に戻れば、ジャブラの姿はなくカクがいた。カクはソファに横になり目を開けたまま何もない空間をぼんやりと見つめていた。
スパンダムの足音とドアの開く音に気がついているはずだが見向きもしない。部屋を歩くスパンダムにむかって、カクは天井を見上げたまま声をかけた。
「ルッチに会えたんじゃな」
まぁなと素っ気なくスパンダムは返したはずだが、僅かな声色、呼吸の速度の変化をカクは見逃さなかった。
「声がいつもより弾んでいる、呼吸も早い」
バイタルサインは読心術の助けになることはスパンダムもよく知っている。カクが言いたい事は察しがつく。
「なんだよ……」
「何でもない」
しかし、カクはそれ以上野暮な話題は話さなかった。ほんのり赤く色付いているスパンダムの頬も、いつもより潤んで大きく見える瞳も全てルッチが原因なのだろう。カクはそれ以上話をせずに、戻る、とだけ呟くとその場から立ち去っていった。
それと入れ替わるようにスパンダムの元へ姿を現したのは、会いたいような、そうでもないような……ルッチだった。
何度目の再登場だ、と突っ込みたくなる。だが、ルッチを見かけると思うように言葉が出てこなかった。
「あの」
口を閉ざしたままのスパンダムを怯えさせないようにしているのだろう。ルッチはいつもの口調よりもだいぶ柔らかに、そしてスパンダムの様子を伺うように声をかけた。
ハットリも連れず、珈琲カップを両手に持ったルッチはスパンダムの机のもとへ近付いた。
「珈琲でもいかがですか」
暗殺といえばCP9。まさか毒や媚薬でも入っていないだろうか。差し出されたカップを覗き鼻先を近づけてスパンダムは異変がないかを確認する。そんな様子のスパンダムにルッチはにやっと笑って言った。
「毒なんて入れていませんよ」
「けど、お前なら一服盛りかねない」
スパンダムはカップの中を覗き、唇を尖らせたまま続けた。
「惚れ薬とか入ってねぇよな」
それに対してルッチはくくく、と笑った。
「あぁ、そうしたら良かったかもしれませんね。まぁ、あなたが強引なことを望まない、と言ってますから。そんな姑息な手は使っていません」
はは、と笑うルッチの目は柔らかく、軽口を叩きながらもスパンダムを気遣っている空気が伝わってくる。
スパンダムはそっとカップに口付けた。
舌先に触れる珈琲は熱すぎず程よい温度感。カップを傾け喉奥に熱い液体を流し込むが毒を盛られた時に刹那に感じるえぐみもない。
カップに口付けたままルッチに目をやれば、あちらもスパンダムを見上げた瞬間だったらしい。思い切り目が合った。
ルッチの真っ黒な眼差しが柔らかくスパンダムに微笑みかける。あ、と思わず声が漏れた。
顔に熱が集まるのは気のせいではないだろう。見てるんじゃねぇよ等と言おうと思えば言えるが。
その場の空気を変える言葉はいくらでもあるがスパンダムは生温い空間に身を委ねながらルッチから視線を逸らした。どうしたら良いのだろう。スパンダムの胸中を悩ましているものは恥ずかしい、という感情であった。
負の感情にも思えるが決して不快ではない。このまま続けば潰されてしまいそうな、けどこの空間の中にずっととどまっていたいような複雑怪奇な気分だった。
少なくともルッチはスパンダムを好いている訳だから、この気まずい重い時間の流れだってスパンダムが悪い訳ではない。
意識する前はもう少しまともな会話が出来たのだが、とスパンダムはちらちらとルッチの髪や首元に目をやる。もっとも彼の身体を見たところで新たな話題提供には伝わらない。
スパンダムはルッチの肩上を見て、いつもの白鳩がいないことを思い出した。珈琲を持ってくるからか、それともおれに会うことに重きを置いているためか、いやそれは自惚れだなとスパンダムは考える。
悩んでいても仕方ない、今の気まずい雰囲気を変えるためにも口を開いた。
「今日はあいつ……ハットリはいないんだな」
まっすぐルッチの顔を見ることが気恥ずかしくて、カップを口元に持ったままスパンダムは話し始めた。湯気が熱いのか顔が熱いのか分からなくなってくる。
「今日は他で待ってて貰うことにしました、特に意味は……ありません」
「そうか」
「しかし、お前のとこの鳩なら珈琲も飲みそうだな。あぁ、でも白いから珈琲で汚れちまうか」
はは、とスパンダムが笑ってみせるとルッチも姿勢を崩しながら相槌を打った。
「あいつは珈琲飲みませんよ。飲んだとしてもこぼしたりはしないと思いますが、どこかの誰かと違って」
どこかのだれか、というのは恐らくスパンダムのことだろう。
鈍感な男だが、ルッチに視線を向けられながら言われればさすがに気がつく。
褒め言葉ではない。しかし、些細なことだがルッチの意識が自分に向いていると思うだけで気分が良かった。
「そんなに零してねぇよ」
年甲斐もなく唇を尖らせればルッチの口元が緩んだ。気を引きたい、訳ではないがついルッチに突っかかってしまう。
「確かに、今日は大丈夫みたいですね」
ルッチはカップを持つスパンダムの手元をじっと見つめていた。まだ零さないか不安なのか?とスパンダムは心配性なルッチを怪訝そうに見返す。しかしルッチの思考はスパンダムとは全く違うことを考えていたらしい。
「スパンダム長官」
とルッチは静かにスパンダムを見た。
なんだ、と見返せばルッチは珈琲の入った陶器を片手にスパンダムの目の前に立ちはだかっていた。時折ふいに繰り出される六式にスパンダムは度々ぎょっとさせられる。
「できれば、一つお願いがあります」
ルッチはスパンダムを見下ろしながら言った。目元に落ちた影で迫力満点だ。
威圧感満点の仮契約の恋人はそのままスパンダムの頭上で低い声を繰り出した。
「もし、良いと言っていただけるのなら、その手に触れても良いでしょうか」まったくときめかないシチュエーションのはずなのに、スパンダムの心臓はいつもよりも早く脈打っていた。殺し屋が目の前にいる気分だが、その殺し屋の言うことに不思議と胸が弾んでしまう。
そして拍子抜けするほど、純情すぎる触れ合いをお願いされ、スパンダムは拍子抜けしてしまった。この男の持つ殺伐としたオーラと願い事の格差で笑いそうになりながら、スパンダムはルッチを見上げた。
「そんなことだったら、別に構わん」
にっと笑えばルッチは猫のように目を丸くした。
ルッチはその場に身をかがめると、スパンダムの手元に自分の手のひらを重ねた。しかしかえってくるのは人肌の温もりではなく生ぬるい革手袋の質感。
「長官、手袋を外しても?」
「あーそうだな。外すから待て」
スパンダムはするりと焦茶色の手袋を外しルッチに手を差し出した。
差し出された手を掴む前にルッチは珈琲カップを握り、それからスパンダムの手に触れた。
「なんだそりゃ、」
その行動にスパンダムは小首を傾げる。
「この方が暖かいかと思ったので」
ルッチはスパンダムの手に視線を注ぎながら答えた。長い髪に隠れておりスパンダムからルッチの表情は見えない。
ふわりとルッチの硬い手のひらがスパンダムの手の甲を覆った。
いつも手袋を着けているスパンダムの手は、ルッチの手より白く、そして一回り小さい。
珈琲の香りが柔らかく二人の空間を満たし、静かな時間が訪れる。何も話さず手を触れている時間なんて、無意味で馬鹿馬鹿しい筈だった。
珈琲カップで温めていたルッチの手のひらは硬いが優しい。人肌より数度高い温もりがこんなにも心地良いなんてスパンダムは知らなかった。ただ黙って肌を触れさせることが心地良いなんて、知らなかった。まだ知らぬ感情に翻弄され、迷走しているスパンダムに、感情の芽生えを告げる。
よく考えればこの歳になって少女趣味の年下の男に迫られてこうして手を握られているなんて気味が悪いとスパンダムは思う。父親が知ったら嘆き悲しみ、持っている権力すべてを行使してルッチを吹っ飛ばしてしまうかもしれないとも思える。
そうなったら二人で逃げよう。
こいつとなら、何処にでもいけるんじゃないかと、錯覚してしまう。こんな感情は嘘だと否定したいが、スパンダムは未だルッチの手を振り払えずにいた。


ルッチは焦点の定まらない目で窓の外を眺めていた。
そんな飼い主、且つ相棒をハットリはつぶらな瞳で心配そうに見つめている。
スパンダムの部屋から戻ってきたルッチはにやにや笑いを浮かべたかと思えば、急に深刻な顔で俯いたり……と恋の病によってひどく情緒不安定な様子だった。
どうして強引にスパンダムに迫ってしまったのか。後悔しても遅いのは分かっている。よりにもよってあんな年上でどうしようもない男に惚れてしまうなんて、ジャブラの女の趣味より悪い気もしている。しかし、好かれると好きになってしまう、というのは嘘ではないとルッチは考える。

そもそも、以前よりスパンダムが時折向ける視線はどこか他の者とは違う気がしていた。
こちらを見る時間、タイミング、話しかければ嬉しそうに垂れる瞳。
はじめは強く、優秀な自分のことを評価してくれているものかと思っていた。
しかし彼が媚びへつらう相手に向ける態度や声、そして体温は、ルッチの周囲の取り巻きとは少し様子が違うように感じられた。
彼は、スパンダム自身は気付いていないかもしれないが、スパンダムはルッチを好いている。スパンダムと過ごす時間が増えるほどにそう感じることが増えた。こちらを見上げるスパンダムの瞳が大きいことも、私生活を気にかけてはルッチが話題にあげた食べ物を翌日には持っていたりすることも、ルッチの強さに陶酔する取り巻きにはない行動だ。
ルッチが冷たくあしらっても、スパンダムが嬉しそうにそれらを差し出せばつい、受け取ってしまっていた。
その他のメンバーにもその恩恵は分け与えられるが察しの良いカリファは眼鏡を光らせてセクハラだわと言い、ブルーノは遠くから何かを察したかのようにルッチとスパンダムの仲を見ていた。
「好きなんだろ」
ある時にはジャブラに。
「好きなんでしょう?」
ある時はカリファにそう、言われた。
はて、彼らは何に対して話をしているのだろうか。ルッチが首を傾げているとカリファたちは言葉を続けた。
そして、決まってそんな時は、スパンダムの話題に移り変わってしまうのだ。
「スパンダム長官は、まぁ、性格は悪いところも多いけど、なんだかんだ世話焼きな人よね」
これはまるでルッチがスパンダムに惚れているのを前提に話が進んでいるようである。スパンダムに惚れてるなんて心外だ、ルッチは苛立ちを隠しもせずに言い返した。
「おれがあの、馬鹿を好いている? むしろあの男が勝手におれを変な目で見ているだけだ」
そうは言ってみるものの好かれて嫌な気はしない。むしろ、もっとその話題を聞いていたいと内心思ってしまうがそんなことは口には出せない。
「まぁ、たしかに長官はルッチを気に入っているな、両思いじゃねぇか」
ジャブラの返事はいつも適当だ。まったく、とルッチは眉を寄せながらスパンダムをふいに思い出した。

さて、人の心理法則には反復法則というものがある。相手が嫌えばこちらも同様に、好かれれば好かれた人間もその相手を好きになる……というものらしい。
スパンダムに好かれていて、ルッチは不思議なことに不快ではなかった。
苛立ちの対象はスパンダムのはずだったのだかいつしか正体不明な自分の体内に生まれたモヤモヤした感情に対するものに成り代わっていた。
気がつけば、ルッチはぼんやりした感情の理由を探すためにスパンダムの姿を目で追っていた。
ルッチの視線の先の紫の癖っ毛は見ていて面白い。
マスクの下で百面相している表情も時折外す手袋の行方も見ていて飽きない。卑怯でずる賢くて、決して愛らしいとか温かい感情とは程遠い存在だと感じているが、時折、ルッチはスパンダムに対して近付いて触れてみたいという感情を抱いていることに気がついた。
愛玩動物に対する感情移入とは違う。いつも隠れている掌に、半分隠れた唇に、触れたいと思ってしまったいた。
それに気付く頃にはすでに深く深くルッチの心に恋心は根付いており、恋を否定するには手遅れだった。
まるでおれはあの男を好いているようではないか、とルッチは一旦思い浮かんだ感情の名を伏せた。ルッチの機嫌をとるように振舞うスパンダムが悪い。
視界に、スペースに、心の奥にまで入り込んでくる。避けようと思っているのに…なぜか避けれない。そう、ルッチはスパンダムを避けなかったのだ。
といえども、実際に隣にスパンダムがいないと落ち着かないと、ルッチは感じていた。
大勢の隣でたまたま隣合えば気持ちが良い。そうでないと椅子の座り心地さえも気になった。スパンダムが隣の者と話しているのが気にくわない。出来ることなら独り占めしたいと、気が付けばルッチはスパンダムの隣を望んでいた。
これは嫉妬心だとルッチは気付いていた。ハットリと腹話術の練習をしながらルッチは自分自身に問いかけてみる。『これはヤキモチなんじゃないか』間抜けな甲高い声で言えば冗談にも思えてきてルッチは苦笑いした。恋なんて冗談みたいなものだ。それなら流されても良いのではないか。

そしてルッチの行動は冒頭の突然のキスに繋がる。

あの時は初めて気づいた感情を形にしたいと、焦ってしまったのだ。強引すぎる行動。その後スパンダムはルッチを避けて避けて、あの口付けはまるでなかったかのように振舞われてしまう。スパンダムはルッチに惚れており意識してくれてもいい筈なのに。
スパンダムの白黒付けようとすらしない態度が気に入らなかった。その苛立ちとルッチ自身の生い立ち故だろう、愛を囁くなんて思いつきもしなかった。
ルッチはふらふらと歩き回っていたスパンダムを見つけ、思わず声をかけた。滑舌悪く挨拶をしたようだがよく聞き取れなかった。
だからルッチは挨拶がわりに皮肉を囁いた。そろそろおれを意識してくださったんじゃないかと思ったんですが、と言えばスパンダムは困惑した表情でルッチに近づいて来た。スパンダムの方が背は低い。必然的に見上げられると身の奥が高揚して体温が上がるような気がした。
さて、その後ルッチとスパンダムは試用期間、という形で付き合い始めることになる。恋愛や一般常識に囲まれて育った訳ではないルッチとしては、恋愛はそういうものなのか、と思っていた。これはスパンダムによるアドバイスだが、恋愛において無理やり勝手にことを進めるのは推奨されないらしい。
といえども、手に触れる程度で相手に許可をえるのも少し違うらしい。
首を傾げるスパンダムに熱が上がるのを感じなからルッチはスパンダムに触れた。革手袋に包まれた手が外気に触れて寒くないだろうか。珈琲カップであたためた手を重ね、スパンダムの華奢な白い手を少しだけ握る。
彼の手が暖まるのを確認するとルッチは手を離した。
これ以上彼を見ていたら、次も次もと欲しくなってしまうだろう。
ルッチは自分の中に潜む感情に抑えがきかなくなるのを恐れ、スパンダムから離れた。愛する人を欲するのは人として一般的な感情だがルッチにはおぞましくいやらしい感情に思えたのだ。
今更自分がスパンダムに抱いている劣情に気付きルッチは戸惑った。

一方、スパンダムは手を握ったかと思えば変な顔をして突然手を離すルッチを不思議そうに見た。
突如離れていく温もりを手放したくないからと思ってしまったからだ。
それからスパンダムはルッチの表情を思い出し、やはり肌に触れ男同士は無理だとルッチは目が覚めたんだろうなと落胆したようにため息をついた。
硬くなった手の平や節々に触れながらスパンダムはルッチを思い浮かべた。
ルッチよりは少しだけ小さくとも、スパンダムの手は女の手よりは大きくて、浅黒くて愛でるようなものではない。
先程までの体温を忘れぬよう胸に思い留まらさせる。一度でも人肌を心地良いと思えた。それだけで人生というものは途端に輝くものだ。
二人でも無言の空間であったが、ルッチが帰ってから急に室内が静かに感じられた。この感情に名をつけるなら寂しさだろう。
だだっ広い室内が寂しくてスパンダムは刀の形で待機させていた薄紅色の象を呼ぶ。気の抜ける声を上げてそれはようやく愛玩する象の姿を現した。
象の肌は荒く硬い。スパンダムはそれに触れながら、先程までのルッチの手の滑らかさを思い出した。胸に迫る感情にスパンダムの瞳が少しだけ潤み、色素の薄い瞳に光を宿す。あの時間だけを切り取って想い出せば、その時の気分は何か強い武器を手にした安心感にも似ていた。一方で、今はぞっと喉奥を支配する喪失感に怯えている。寂しい、という感情にようやく気付き、そしてルッチへの愛着にも同時に気付いたのであった。

スパンダム自身も高笑いをしては鬱陶しがられるのが常だというのに、今日は他人のそれを鬱陶しく思った。
「食欲ねぇな」
ぼそりと呟くスパンダムに対して部下たちは薄情だった。
「そりゃ、年取ったからじゃないですか」
各々に個性の塊でできたメンバーは勝手な憶測を立て笑っていた。
「あーたしかに最近は胃もたれが……っておれ、中年?!」
スパンダムは空元気を引っ張り出してその場の空気に身をひそめる。笑っていれば重い気分も晴れる筈だ。
「そういえば、長官」
艶っぽい声がスパンダムを呼んだ。
声の主、カリファは艶のある金髪をかきあげながら言った。
「この間、カクがどっかのお土産で買ってきた焼き菓子が向こうの棚にあったはず……持ってきてもらえますか?」
小首を傾げて依頼をする様子すら色っぽい。眼鏡の奥の瞳はキラリと光ってスパンダムを見る。
「面倒くさいな……」
しかし、その手の色仕掛けは今のスパンダムには効果がない。はぁ、とため息をつき、ぽりぽりと首元を掻くスパンダムに対してカリファは眉根をひそめた。
「セクハラです」
「面倒くさいって言っただけなのに?!」
色気を含むカリファのセリフに対して、スパンダムはぎゃぁぎゃあと喚き声をあげるが、冷静なカクとジャブラの視線も「おかしもって来てよ長官」と言っている。
「し、しょうがねぇな」
そう言うとスパンダムはお菓子を取りに行くことにした。

そもそもおれは上司じゃないか、と思いながらスパンダムは隣の部屋に向かっていた。
赤い包みに入った焼き菓子か、とそこまで甘味に興味のないスパンダムの気分はたいして上がらない。
さて、さっさと取ってカリファに渡すか……と思いながら棚に近寄りスパンダムは手を伸ばした。
しかし赤い箱まであと一歩のところで届かない。つま先立ちをしてみるが、体幹がぐらついてそのままスパンダムはずるっと床にすっ転んだ。
馬鹿にしやがって、とスパンダムは立ち上がり、もう一度同じ動きをする。
いやまてよ、踏み台があれば届くよな。部屋を見渡すように振りくと、そこには踏み台がない代わりにルッチが立っていた。
何してるんですか、と呆れ顔が口を利く前から言っていた。転んだ時にぶつけた赤い額をみてルッチはすぐにスパンダムの状況を察したのだろう。すっと足音もなくスパンダムに近付くと、スパンダムの背後から手を伸ばし、簡単に赤い箱を手に取る。
「ほら、これですよね」
ありがとな、と言おうとついスパンダムは振り返ってしまった。ルッチとの距離感が近いことも忘れて振り向けば、頭のすぐ上にルッチの頭、目の前にはネクタイの結び目が見えた。
さらに上を向けば、スパンダムを見下ろすルッチと目があってしまう。
箱をスパンダムに当たらぬように頭上に掲げており、どこか滑稽な姿のルッチであるが、ルッチとの至近距離の短さにスパンダムは狼狽えた。
目を大きく見開き、口を開けたままで硬直しており、ルッチから見ても面白いと思うほどの慌てぶりだ。
壊れたおもちゃのようだ、とルッチは思いながらスパンダムを見つめていた。真っ赤な顔をしている。突然近付いたから怒らせただろうか。ルッチは焼き菓子の入った箱を掲げるように持ち上げたままゆっくりスパンダムの体から離れていった。
頭上に両手を上げたまま静かに後退るルッチに対して、スパンダムぽかんとした顔で静止している。

スパンダムは何も言ってこない。
ルッチはスパンダムからそのまま静かに離れていき、箱を渡して立ち去ろうと考えた。
ゆっくりとスパンダムを怯えさせぬように箱を頭上から降ろしスパンダムに箱を差し出した。
だが、しかし、箱を差し出した途端、スパンダムの眉がへの字に垂れ下がりルッチを見つめていた、まるでルッチに離れて欲しくないとでも言うように。
ルッチはスパンダムがルッチを好いていることを前提にスパンダムに交際を申し込んではいた。しかし避けて避けて避けられてからと言うものの、ルッチは自信を無くしていた。
このように曖昧な態度を見せられてはどうしたらいいのか分からなくなる。箱を差し出したままルッチも困惑に眉を寄せた。
ルッチが神妙な顔付きでスパンダムを見つめているとスパンダムはルッチを見上げて口を開いた。
はじめの一声ふた声ははくはく、と息を食むよう様子でおどおどとしていたが、それから一息ついくと、を決したようにスパンダムは声を出した。
「なんで……急に、離れるんだよォ」
スパンダムは孤独に怯える子供のような声をあげた。
「おまえ、おれのことを好いてる割には離れていくとか……」
スパンダムの声色がだんだんと小さくなっていく。顔を覗き込んだルッチは息を飲んだ。
「ほんとはおれのことなんか好きじゃなくて、からかってるんだろ……」
ルッチの目に映ったスパンダムは目一杯の涙を堪えながら拳を握っていた。
「やっぱりおまえなんて、ルッチなんて……」
スパンダムの瞳から涙が一筋こぼれ落ちた。どうすればいいのか、とルッチは考える。出来ることならこのまま抱き締めたい。いま、この場で彼に聞けばいいのだろうか。しかしスパンダムに尋ねたところで正しい答えは返ってこないだろう。
「あの、スパンダム長官」
ルッチは焼き菓子の入った箱を静かに近場の台に置き、スパンダムを呼ぶのと同時に、その身体を抱き寄せた。
急な抱擁に驚いたスパンダムはひ、と息を飲む。
「もし嫌でしたら教えていただきたい。急に接触してすみません」
抱き締めたくなりました、と続けるルッチの中でスパンダムは静かにその抱擁を受け入れていた。
気恥ずかしいような、心地良いような。抱き締めたくなりました、などと言われてときめいてしまったスパンダムは悔しさに唇を噛む。
「……っ、」
背中を支えるルッチの手が心地良い。悔しいけれど、嫌いじゃない。スパンダムはルッチの胸板に額を寄せ、ルッチのシャツを握り締めたままうーっと唸り声をあげた。
「……っ、る、ルッチ」
「どうしました?」
スパンダムは涙で未だ落ち着かない声でその名前を呼んだ。名を呼んでみたものの特に深い意味はない。呼びたくなったのだ。
「な、んでもない」
「嫌ですよね。離れますから」
「待ってくれ……ルッチ、た、頼む」
「あの……その、もう少しだけ、こうしていてくれ」
「それは、抱き締めていても良いということですか?」
「それでは失礼します」
「わぷっ」
急に大人しくなったスパンダムの頭にルッチは手を置いてみた。
以前ならギャンギャン怒鳴り散らしていたであろう男の口は閉じており、だまってルッチを受け入れていた。もっと触れたいと思いルッチはスパンダムの頬を指先でなぞった。
「る……」
その先は言わせない、とでも言うようにルッチはスパンダムの唇に人差し指を置いて言葉を封じた。
キスしたい。スパンダムは今の状況にそう思ってしまっていた。
だがスパンダムの唇に触れていたルッチの人差し指は、離れていき、それ以上は干渉してこない。
「キスはさすがに嫌ですよね」
「それは……」
今更キスをしたいなんて言えるわけがない。ルッチを好きだと認めたくない。
「泣くほど嫌ですか」
涙を拭われて我に返る。
「ちがう」
「……お前がしたけりゃ、すれば良い」
あれだけルッチからのラブコールを無視しておいて、今更素直になんかなれるわけがない。スパンダムは自分の気持ちを破り捨てて建前を吐き出した。
「でも、おれはあなたが嫌がることはしたくないです」
「それは……、おまえこそどう思っているんだ?」
「おれ、ですか」
「それは、勿論……キスしたいと思っています。あなたを愛していますから」
「なんで、そういうこと、言うんだよ」
「長官?」
一瞬の静寂があたりを包み込んだ。
ふ、と風がふいたように感じたが、そらは気のせいだ。人の気配が動いた故に辺りの大気が動いただけのことである。
ルッチは一瞬、この人生の中で何年振りかに、油断した。
は、と息を吐く前に何が起こったかは、頬の皮膚組織が圧力を感知し、身体では理解をしていた。
頬に手をあてて、何かが触れたことを確認すると、ようやく今のルッチにとっては膨大すぎる情報がルッチの脳味噌に到達した。あぁ、キスだ。スパンダム長官は頬にキスをしていったんだ、と理解した。
「これは……おれがしたいと思ったからだ。お前が嫌なら、もうしない」
スパンダムは困り眉でルッチを見上げてそれだけを告げた。そして、突然のキスに呆然とするルッチに背を向ける。
「へ……ち、長官?!」
惚れさせたけりゃ、優しくしやがれ……!スパンダムは捨て台詞の如くそれを叫ぶと、パタパタという足音と共に走り去っていった。
ようやく我にかえったルッチはスパンダムを呼ぶがもう遅い。頬が、体が熱い。

嵐のような出来事にルッチは呆然としていた。しかし、直ぐに我に帰ると、ぎらりと目を光らせスパンダムの背を追った。本気を出して追わずとも元々身体能力の低いスパンダムの駆け足だ。ルッチであれば一瞬で追いつくことができる。
ルッチは長い手足を動かせば、すぐにスパンダムに追いついた。
「何故逃げる?」
ルッチを見た途端、スパンダムはギョッとした顔を向けた。真っ赤な顔が真っ青に変わる。
「に……逃げてなんていねぇ」
「菓子の箱も置きっ放しです」
「すぐに戻る」
「そうですね、おれと戻りましょう」
スパンダムは泣き出しそうな顔をしたまま静かに俯いた。
「手でも繋ぎますか」
「なンでそうなるんだよ!」
差し出されたルッチの手を振り払いスパンダムは声を荒げた。ルッチはスパンダムが捨て台詞のように吐き出した惚れさせたけりゃ優しくしやがれという恋愛指南を思い出す。
「優しくしろと言ったのはあんたじゃないか」
「それは……」
たしかにルッチの言う通りなのである。しかし人の気持ちというのはそう簡単に整理できるものではない。山のように高いプライドや、年齢差や羞恥心世間体……。変人だらけのエニエスロビー暮らしに慣れてきたといえども恋愛感情の取り扱いには不慣れであった。しかし、それはルッチにも同じ事が言える。
あ……と二人の声が重なった。そして、ルッチ、とスパンダム長官とお互いを呼ぶタイミングが重なる。
「その……なんだ、先に言えよ」
「いえ、どうぞ」
「おれのは何だっていいんだ、別に何でもない」
「それなら、」
ルッチはこれからスパンダムへ指銃を打ち込みそうな、殺気立った目でスパンダムの姿を見た。殺気立ってはいるものの、「見つめた」という表現の方が正しい。
「おれはあなたを好いている。あなただって……違いませんか?」
紫の髪が揺れた。鬱陶しい長さの髪と、顔面のほとんどを覆い隠すマスクがスパンダムの表情を隠している。
「それは……」と言うとスパンダムは静かに目を伏せた。
「貴方がおれにキスをしたのは、惚れさせたかったからでは?」
違いますか、とルッチは言った。一歩近付けばスパンダムはびくりと小さな身体を揺らした。
「そ、それは」
もう一歩、ルッチはスパンダムに近付いた。ルッチの厚い胸板がスパンダムの目の前に壁のようにある。
「惚れさせたけりゃ優しくしやがれ」
ルッチはそう言うとスパンダムの顎先をくいと持ち上げた。身を屈めたルッチと上を見上げるスパンダムの姿が、エニエスロビーの廊下の端で停止する。
「惚れさせたのはあなただ」
吸い込まれるような真っ黒な瞳に見つめられ、スパンダムは息を呑んだ。
ルッチは色素の薄いスパンダムの瞳をじっと見つめる。
「ちっ、しょうがねぇな」
吐き出した言葉は乱暴だが、その物言いはルッチを甘やかすような感情を含んでいた。
スパンダムはうっとりした瞳を向けてルッチの顎先に手を寄せた。
「惚れさせたいから、やさしくしてやる」

おわり

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