エレリ 恋の魔法に効く薬

夕日が世界を赤く染めている。
拾い集めた枝や薪を詰めた籠を背負ったエレンは遠い夕焼けに足を止めた。
空の中を鳥の群れが飛んでいく。夕方の鐘の音が遥か東の方から聞こえてきた。冷たい風が一瞬止まりエレンは息を飲む。巨人の恐怖を思い出させたあの日を思い出す光景だ。
思い出した記憶に眉を寄せる。
忌々しい記憶を封じ込めるように目を固く瞑れば、敏感になった聴覚が小さな風の音と、誰かの足音を拾った。
こんな森の中で、いったい誰が来たのだろう。可能性としては物取りか同じ兵士。警戒するように辺りを見渡せば、良く知っている人影がこちらに近づいてきていた。
日中はハンジの実験や質問責めに付き合っていて心身共に酷使していたのに加え、すっかり過去の記憶に浸っており、存在を忘れていたが、リヴァイも共に散歩を兼ねた薪集めに同伴をしていた。
「おい」
冷たい風がひゅうひゅうと音を立てた。
夜風が身に染みるのだろう。目の前のリヴァイはシャツにジャケット、更にマフラーを着込んで寒そうに立っていた。
「す、すみません」
思わず謝ればリヴァイの片眉がひくりと動いた。じっともの言いたげにエレンを見つめる。
条件反射の如く怯える癖はやめたいと思うのだが、初対面の記憶が大きい。いまだにエレンはリヴァイが少しだけ怖いのかもしれない。
憧れていた存在に対する思いもあり、自分のような新兵に気を向けてもらっていることへの負い目もあるのだろう。
おどおどとするエレンの様子にリヴァイは小さく溜息をついて、呆れとも失望とも取れない微妙な表情を浮かべた。
「あ、あの」
「そろそろ冷える。帰るぞ」
エレンの言葉を待たずにリヴァイはそう一言だけ述べ、エレンに背を向けて帰り道へと歩きはじめる。
「わかりました」
エレンは籠を背負う肩紐をしっかりと握り直すと、すたすたと歩いていくリヴァイの背を追い掛けた。

二人が向かうのは、調査兵団が今回も拠点としている旧調査兵団の古城である。
薄暗い夜道は草木の揺れる音と、獣の蠢く音しかしない。
「なぁ」
隣で歩くリヴァイはエレンの顔を覗くように顔をエレンの方へ向けた。
眉間のしわや、何を考えているのかまったく分からない険しい表情が怖い。
「お前……好きな食いもんは何だっけか」
怒られるのではないかと内心びくびくしていたエレンは思っていた以上に平和な質問に目をぱちくりとさせた。
時々リヴァイはエレンに気を遣うようにこうした突拍子のないようなことを言う。
嬉しいような申し訳ないような気分になりながらもエレンはその質問に答えるべく口を開いた。
「シチューです」
「ほう」
一体何を試されているのだろうか。エレンよりも視線は下にあるが、上目づかいにエレンはそう言った。
ぎろり、とリヴァイの小さな黒目の奥が光る。まるで審議所の地下で会った時のような鈍い光を宿した眼光だ。
「なら良かった、今日の夕飯はシチューだ」
伏し目がちにリヴァイは続けた。
「間違っていないようで良かった。明日から遠方まで行く訓練だろ。しっかり食っておけ」
口調は素っ気ないけれど気を遣ってくれているようだ。
居心地のいい緊張感と昂揚感。
不思議な気持ちに浸りながらも足を進めれば、川からも壁からも遠く離れた森の中に佇む古ぼけた大きな建物。
立地条件は最寄りの壁から徒歩一時間以上、といったところだろうか。
ようやく到着した古城へ入ってすぐにエレンは背負っている薪の入った籠を入口の隅に置いた。
先に進んでしまうリヴァイを追い掛ければ、ふわりと腹の虫を目覚めさせるような良いかおりがエレンの鼻腔をくすぐった。
エレンの腹底から鳴る音にリヴァイはにやりと口の端をあげて笑う。
「へ、兵長、これは……」
「腹が減っただろう。もう夕食の準備は出来ているんだ。上着脱いで落ち着いたらさっさと食堂に来い」
はい、とエレンが返事をするよりも先に腹の音が先にぐううと返事をする。
面白がるようなリヴァイの視線。羞恥心に頬に集まる熱を感じながらエレンは自室へと向かった。

「いただきます」
「今日はみんなでシチュー作ったんだよ、明日から遠征の練習で大変になるからちょっと豪華にしたんだ」
にこりと優等生な答えをするペトラにオルオはすかさず絡んでいく。
「つまみ食いしていた癖に良く言うもんだ」
ふんぞり返るオルオをペトラは余計な事を言いやがってとでも言いたげに睨み付ける。
「それはお前もだろうが」
まったく、とエルドは呆れ顔で主にオルオに突っ込みをいれれば、うっかり舌を噛んだオルオにペトラはくすりと笑みを零した。
「パンも焼いたんだよ」
ペトラはパンをエレンに差し出した。
甘いかおりに誘われてパンを手に持てば内側から手のひらに伝わる温かさにエレンは目を丸くする。
「パンは俺が焼いた」
「兵長張り切りすぎですよ」
手に持ったパンを手で割ればふわりと焼きたての蒸気が立ち上がり、食べてみれば外側の香ばしさと内側のしっとりとした口触りと小麦の甘さが口いっぱいに広がった。
シチューを口に運べば良く煮込まれた野菜と、わずかに入った肉のうまみがエレンの喉を喜ばせる。
ごくん、とおいしそうに食べるエレンを見てリヴァイは嬉しそうに目を細めた。ちょうど目をあげたエレンとリヴァイの視線が合ってしまう。
エレンは驚いたような顔でスープを飲み込んで固まった。どきどきと身体の音が妙に大きく聞こえる。
エレンの様子がおかしいことに気が付いたリヴァイは首を傾げてエレンを見る。
「なんだ? 変なもんでも入っていたか?」
「い、いえ。何でもないです」
突然の動悸に動揺したままエレンは俯いた。スプーンの曲面には引き伸ばされたエレンの間抜け面が写っている。
「そうか?」
心配そうなリヴァイの声色に何となく申し訳なく思ってしまう。
「エレン、明日からも忙しくなるし、具合悪いのなら無理はしないでね」リヴァイの心配にかぶせるようにペトラもじっとエレンを見つめる。
「大丈夫です。すみません、心配かけて」
「大丈夫なら良いんだけど、ちょっと顔が赤い気がしたんだけど気のせいみたいね」
「はは……」
エレンは苦笑いを浮かべながらもう一口とシチューを口に運んだ。
口に入れた真っ赤な人参は柔らかく煮込まれて一度噛めば溶けるように崩れていく。
ほう、と息を吐きだして顔をあげればちょうど、スプーンを口に運ぶリヴァイが目に入った。熱いスープを冷ますべく息を吹きかけている動作が人間じみていてほっとする。スープの塩気に人参とキャベツの甘味が混じり寒さに凍えた身体に染みわたる。
「これ、美味しいです」
うっとりと溜息を吐きながらエレンは言えば、伏し目がちになっているリヴァイの口元が少し上がった。
「良かったですね、兵長。エレンが喜んでくれて」
ペトラは小さな両手を合わせてにこりと微笑む。彼女の周りは春風でも吹いているかのように明るい雰囲気が広がっている。
「あ、それは言うなって言われていただろ!」
その横からオルオがこっそりと。しかし大声でペトラに耳打ちをする。うっとおしそうにペトラはアンタ声が大きいのよ、と反論をするがその様子はやはり夫婦漫才である。
グンタは、また始まったなと呆れたように食事を続け、エルドは春風の吹くリヴァイ班を楽しそうに見渡した。
「え、これ兵長が作ってくれたんですか?」
嬉しそうにエレンはリヴァイに尋ねれば、リヴァイはまぁな、と素っ気なく返した。
「たまには俺も作ってみたかっただけだ」
ぼそぼそと呟くリヴァイに、エルドは更に言葉を付け足した。
「エレンの好きなもんにするって言ってましたもんね、兵長?」
「え?」
エレンの大きな瞳がリヴァイとエルドの間をゆらゆら揺れる。肩肘をついてにやにやとエルドは口を滑らせちゃいました。と悪びれもなく言う。
「忘れた」
ぷい、とリヴァイは仏頂面で顔をそらした。
「さぁ、明日も早いんだし冷める前に食っちゃいましょ」
戸惑いにきょろきょろと落ち着きのない様子のエレンをみてエルドは笑いを堪えているのだろう、肩を震わせながらそう言った。

初めての遠征訓練が終わり、拠点の古城に戻る。巨人化の実験ほどではないものの、疲労の色をにじませた溜息をついてしまう。
馬を厩舎に繋ぎ止めているとそこにちょうどリヴァイの黒い馬も入ってきた。
エレンの栗毛の馬の隣に行儀よくリヴァイの馬も並ぶ。
「お疲れ様です」
声をかけるとリヴァイはちらりとエレンを一瞥し、リヴァイは手に持っていた馬毛のブラシで馬体についた草木を神経質に払い落とした。
「なぁ」
リヴァイは顔を馬に向けたままリヴァイは続けた。
「今日の訓練ご苦労だった。その……頼みがあるんだが」
リヴァイにしては歯切れの悪い物言いだ、とエレンは感じる。もしかしたら悪い知らせでもあるのだろうか。
なんですか、とエレンはこわごわリヴァイの話を聞き返した。
「この後に用事は特になかったよな……」
殆ど行動を共にしているエレンとリヴァイは大抵の互いの予定を把握し合っている。ええ、と頷けばリヴァイは話を続ける。
「買い物に行きたいと思っていて、出来れば手伝って欲しいんだ。その、今日は買い物の量が多くてな」
リヴァイが同伴しているといえども買い物に外出であれば、一応許可などが必要なのではないだろうか。
「外出についてならエルヴィンとハンジに話は通してある、悪いんだが買い物に付き合ってもらっても良いか?」
許可が取ってあるのならば問題はないだろう。
エレンは二つ返事で承諾すると、リヴァイは満足そうに頷いた。。

夕刻の街中だが意外と人通りは多い。
日がほとんど沈んでしまい街灯がぽつぽつと灯され始めた街並みには遊びから帰る子供たちや買い物中の人々が歩いていた。
人ごみの中でエレンの身元が知られるのはあまりよろしくない。目立たぬように二人は兵服ではなく、私服に着替えて薄暗い街並を歩いていた。
同じようなキャスケットを深くかぶり、黒いジャケットや茶色いカーディガンを羽織る。チャコールグレーのパンツに革靴を履けば、遠目からみれば少年二人組にも見える。念には念を入れエレンは度の入っていない眼鏡をかけている。
肩にかけた鞄には護身用のナイフと銃が入っているがそれ以外の武装は行っていない。砂っぽい街の人ごみに身を隠すようにエレンもリヴァイも紛れて歩く。
「あった、あそこだ」
目的の店を見つけたらしい、リヴァイはそちらに向かいエレンの腕を引いた。

「いらっしゃい」
日用雑貨店なのだろう。
店主はぶっきらぼうに挨拶をする。
「よぉ」
野暮ったい帽子をリヴァイは取って挨拶をする。すると少し小太りの店主は親しげな表情をうかべた。
「リヴァイ兵士長、久しぶりじゃねぇか」
今日は何を買いに? と店主は髭を撫でながら尋ねた。
「ああ、掃除道具とか色々な」
「連れも一緒なんて珍しいじゃないか……もしかして恋人か?」
「そんなんじゃねぇよ。まぁ、悪いやつじゃないが」
陽気な店主は鼻歌混じりに店の中に陳列してある小瓶などを並び替えている。
「そりゃなんだ、見たことのない瓶だが」
「ああ、これは窓拭き用の新しい洗剤が入ったんだ。だが思っているほどのもんじゃないな」
ふん、と小瓶を手に取って包装に書いてある文字を眺めながらリヴァイは鼻を鳴らした。
「まぁ、今日は箒が欲しくてな。洗剤には用がない」
リヴァイはそう言うと箒を二本と日用品の籠やらバケツを受け取ると店主に金を払い、店を出た。
店を出ると片方持て、とリヴァイはエレンに箒と大きな紙袋を渡した。
「荷物持たせちまって悪いが、もう一軒寄るところがあるんだ。いいか?」
そう言ってリヴァイが入った店は甘いかおりのする店だった。
店の中にはまるで宝石のように砂糖菓子やチョコレート菓子が並んでいる。
エレンのような子供には場違いな店内に一瞬エレンは店の入り口で躊躇うがリヴァイに手を引かれるようにして気が付けば店内のショーケースの前にいた。
「これとこれを一つずつ。簡単に包んでくれ」
「かしこまりました」
「エレン、会計は済ませてあるから受け取ってくれ」
そうしてエレンが袋を受け取るのを確認すると二人は店の外へ出た。

身体にチョコレートの香りが残っているか、それとも袋から漂っているのか、ほんのりと甘いココアが香っている。
甘い物は好物の部類に入る、これだけで腹が減ってしまいそうだ。とエレンは紙袋を横目に思う。
「これって誰かに贈り物ですか?」
誰か大切な人でもいるのだろうか。プライベートなことまで詮索しては失礼かもしれない、と思ったが聞かずにはいられなかった。
「まぁ、そうだな」
すっかり空は藍色に変わり天井には星が散りばめられている。星空を見上げるように遠くを見ていたリヴァイは急にエレンの方を向いて言った。
「お前にやるよ。甘いものは好きだったよな」
「え、でも」
今日は手伝ってくれただろとリヴァイは続けるが、それにしたってその対価にものを受け取っていいのだろうか、とエレンは思う。
「俺がお前にそれを渡したいんだ。気に入らないなら捨てちまっても構わない」
「その」
高価とは言っても食べたら消えてしまうチョコレートだ。背伸びすれば買えないものでもない。
「その、嬉しいです。でも……どうしてこんなに優しくしてくれるんですか?」
自分ばかり特別扱いをされているようでどうしても落ち着かなかった。
不快ではないけれど胸の中に引っかかる。何とも言い表せない不思議な気持ちだ。
「それは……」
リヴァイが次の言葉を発する瞬間に被るように大きな雑音が二人の会話を断ち切った
「エレン・イェーガーって餓鬼がやっとリヴァイ兵士長の下で拘束されたらしいぜ」

突然自分達の名前が耳に入り身体に緊張が走った。

「噂じゃ過去にも人殺しをしているらしいな」
ぎゅっと心臓を掴まれたような気分になった。周囲のひそひそと話す声すべてが自分の噂話のように感じる。
「おお、怖い。そんなやつはぶっ……」
リヴァイの眼光が鈍く光る。エレンはそれ以上の会話を聞くことはなかった。
決してリヴァイがその二人に手を出したから、という訳ではない。
リヴァイがエレンの手を引いてその場から走り出したからだ。
街の真ん中から、人気のない場所まで一気に駆け抜けた。荒く肩で息をするエレンにリヴァイはぽつりと言う。
「気のせいだ」
膝に手をついて息をしているエレンは苦しそうにリヴァイを見上げた。
「気にしているんだろ。だが、お前は悪くない」
「……」
「そんな顔をするな。世の中がどう言ったところで、俺がお前に思うもんは変わんねぇよ」
「たった一人の味方じゃ頼りないだろうけどな。それに明日も訓練だろ、早く帰るぞ」
そう言ってリヴァイはエレンの肩をぽんと叩く。
たった一人の言葉なのにかかわらず不思議なくらいに落ち着いた。はい、と返事をすればリヴァイも満足そうな顔をした。

心地よく高鳴る気分とチョコレートの香りが混じり合う。
洋酒入りの洋菓子を食べたように身体がほくほくと温かい。その夜は、チョコレートの香りに酔ってしまったのだろうか。陶酔したような心地良さの中でエレンは眠った。

翌日は本来の予定に従い朝から訓練が行われていた。
見上げれば雲一つない真っ青な空はどこまでも高い。風を切って森の中を走り抜ける。
緑の生い茂る夏の森の中は蒸し暑く、訓練をしていれば汗だくになる。
例え馬術の訓練であってもそれは同じだ。
常に早く、まさに移動の為に品種改良して作られた馬にはしがみついているだけでかなりの体力を要する。
前方を見れば遥か遠くにリヴァイの後ろ姿があった。もうすっかり距離を離されてしまったようだ。
「これが実践だったら喰われている、もっと速度を上げろ」
そんな無茶を言われましてもとエレンは思う。
まだ若さゆえに経験が浅いからというのも理由の一つではあるが、木々の生い茂る森の中では枝葉が顔面に触れて頬が切れてしまう。故にリヴァイと同等の速度を保った移動は安易なことではない。
右頬に小さな傷を作りながらエレンは目の前の黒い馬を見据える。声を張って指示を出すリヴァイとの間隔は二馬身以上。
もっと距離を詰めなければならないが、この狭い森の中で馬を操って自身の最高速度を保つことでせいいっぱいでリヴァイに追い付くことなど不可能だ。
痛みを恐れていては実際の戦闘では役立てないのは分かっているが理性が動きに制御をかける。
目に飛び込んでくる木葉に目をつむれば暗闇が視界を埋めた。
「いっ」
ぽすん、と額に何かがぶつかり、エレンの首ががくんと後ろへ倒れた。
「いてて」
赤く跡をつけた額を押さえ、前方を向けば楽し気に肩を揺らすリヴァイの後ろ姿。
慌てて受け取ったものをみれば、ハンジが良く壁外調査で身に着けているゴーグルだった。
「眠っている暇はねぇんだ。それでもつけていろ」
木々にぶつかっては移動速度を落とすエレンを見かねたのだろうか、しかし半人前扱いにエレンは釈然としない気持ちになった。
「兵長、でも」
エレンは片手にゴーグルを持ったままリヴァイに言った。
目を患っているわけではないがゴーグルに頼るなんて自分一人だけこんなもの頼るのには少しだけ抵抗がある。
リヴァイに渡されたゴーグルの装着を躊躇っていると、馬に乗ったまま器用にリヴァイはもう一度自分の荷物を探り始めた。
「ここら辺は木が生い茂っていやがって気が散って仕方ない」
そう言ってリヴァイは手荷物にもう一つ常備していたようだ。ゴーグルを取り出すと装着を始める。
リヴァイがそれを装着したのを見て、周りの兵士たちも同じようにゴーグルをつけ始めた。
どうやら皆言わないだけで気になっていたのだろう。
「お前もぼさっとしてないでさっさとそれを着けやがれ」
「あ、はい」
リヴァイに促されるままにエレンはゴーグルを装着する。
ゴーグルのベルト部分に髪の毛が挟まる、それに加え視界に違和感もある。だが、木々の小さな攻撃はこれで気にすることはなくなった。
目をしっかりと見開いて前を向く。
緑の木漏れ日の落ちる道の中、真っ直ぐにリヴァイの馬が目の前を先導していく。
エレンもそれに追いつくように手綱をしごいて馬の速度をあげる。栗毛色の相方は従いますとでも言わんばかりに口をもごつかせ速度をあげた。
速度に乗れば木々の間の風になる。遠かったリヴァイにようやく距離が近づいた。
兵長と呼ぼうとする前にリヴァイはエレンの方へ振り返った。ぎくりと心臓が跳ねる。
エレン、とリヴァイは言う。その声は先ほどまでの厳しさはなく、今受けている木漏れ日のように優しさを含んでいる。
「細かいことは気にするな。生き残ることを一番に考えろ。たとえ壁内の訓練であってもな」

どうでもいいことに拘っていた自分を思い返してエレンは急に気恥ずかしくなった。
くだらない拘りがまさに半人前なんだ、と思うと恥ずかしさでゴーグルの中が曇りそうだ。
下を向けば馬の首筋はピンと上を向き速度を保っている。
しかし、今は下を向いている場合じゃない。しっかりと前を見据えればそれを待っていたかのようにリヴァイはエレン! と大きな声で呼んだ。
はい、と返事をするよりも先にリヴァイは言葉を続けた。
「エレン、俺はお前を半人前だなんて思っちゃいねぇ」
「はい!」
視界が急に明るくなる。高木に囲まれていた地帯を超えたのだろう。低木と草原が続く景色の中、馬の走る音が規則正しく響く。
「もっと速く走れるか?」
試すようなリヴァイの問いかけ。今はもうすでに今までの最高速度は保っている。でも、きっと。
エレンは馬に問いかけるように、馬の首に手を添える。頼もしく風になびくたてがみを撫でれば、任せろと言いたげに彼は鼻をならす。まだ、速く走る事はきっとできる
「できます!」
「それでいい、いくぞ」

リヴァイの手が手綱を強く握ったのが見えた。
馬の首が横を向いて少しだけ方向を転換する。
エレンもそれに従えば、馬もその方向に従う。ぐるりと景色が垂直に変わる。目の前の自由の翼の紋章を目指しがむしゃらに追い掛ける。
低木ばかりの場所からもう一度深い茂みへとリヴァイの後ろ姿は進んでいく。
まるで撒かれている気分で必死にその後ろ姿を追って行けばどんどん森の奥深くに進んでいるのが分かる。
「ここは……」
きょろきょろと辺りを見回せば、共に走っていた兵士たちはいない。精鋭班の先輩方のペトラたちも姿が見えず、いつの間にか二人きりになっていた。
ぴぴぴ、と小鳥の声が森の中に響いており長閑な緑と草花があたりを覆っていて平和な光景だ。
「あの、他の先輩たちが……」
「置いてきちまったな」
不安を滲ませた声のエレンに対してリヴァイは何の悪びれもなくさらりと言った。
「二人ではぐれるのも訓練の一つさ。合流できるように走るか」
はぐれてしまったと言っているが、わざと周りとはぐれたかのようにリヴァイの声色は今の状況を楽しんでいる。
「合流って、兵長楽しんでません?」
「そう見えるか?」
時折こうしてリヴァイはエレンの前でだけ楽しむようなふざけているような態度を見せる。
共に過ごしている間に距離感が縮まったからだろうか、などと考えるが他の先輩方の方がエレンよりも長くリヴァイと過ごしている。
どうして自分だけこうして特別扱いされるのだろうか、とエレンは思う。

巨人になることが出来るという意味での不遇に同情されているのだろうか。
それとも巨人になる人間への恐れだろうか。疑問に思えばきりがないがどれもしっくりとこなかった。
恐れられているのにしても、同情にしても余りにもその距離が近い。子供扱いかとも思うのだがどうやらそれも違うらしい。
どちらかと云えば親しくなったという表現が一番落ち着くだろう。

過去に子供扱いをされているのではないか、とリヴァイに子供扱いしているんですか? と問うたこともあった。

あとから思い返えしてみれば無礼な質問であったが、それが許されるほどに二人の距離は近いものになっていた。
それを聞かれたリヴァイは一瞬書類を捲る手を止めてエレンを見つめ、一息ついてから答えた。
リヴァイは天井、窓の外、エレンと視線を遣って焦らすように一息つくと、そうかもな。と一言述べた。
その表情はどこかとぼけていたが、それだけではないニュアンスを含んでいた。
それだけで、エレンは胸の内が満足したような気分になり、にまりと笑って返した。
その表情にリヴァイはおいおいと呆れ顔を作るが、口元は笑っている。
この人は本当に人の心を掴むのが上手い。
羨望の眼差しを向けていた英雄に近付いた優越感とそれだけでは説明のつかない感情で胸がいっぱいになる。
正体不明の感情はとくとくとエレンの心の奥に芽生えて生き物のように小さく脈打っている。侵略者のような感情は時に病原体のように振る舞い感冒のような熱をエレンにもたらした。

「は、」
頭の中で弾けるようなひらめきにエレンは声をあげた。
ずっとエレンの頭の中で彷徨っていた思考回路が繋がったような感覚に襲われる。
今まで探っていた神経を探り当てるように、若しくは一瞬の星のまたたきのように、小さな恋を見つけてしまった。
いつの間にかエレンの心に入り込んだリヴァイへの恋心は時間を追うごとに育っていき、自分自身でも意識せざるを得ないほどに大きくなりエレンを苦しめた。
好きとは言わない。けれどもちょっとずつ距離を縮めるように近づいてきては離れていくリヴァイの態度はますますエレンの心をかき乱す。
一体リヴァイは自分をどう思っているのだろうか。
年の離れた弟のように思っているのか、それとも親を亡くした可哀想な子供として同情をしているのか、それとも。
思い悩んでも、いつものように声を掛けられ隣で話をしているうちにその悩みはうやむやになってしまう。
聞いてもいいのだろうか、と考えたこともあるが、その一歩で二人の関係に亀裂が生じてしまうかもしれない。
全部が怖くてエレンはいつまでも聞くことはできず、着かず離れずの距離を保っていた。
リヴァイの言う通り遠すぎず、近づきすぎない距離で。
今の状態と同じだった。遠く離れては、呼び戻される声で近づいて、けれども触れることもできない。
いつもリヴァイのことを追い掛けていた。
「兵長」
エレンはリヴァイを呼ぶ。発した声の低さに自分自身でエレンは驚いた。
先程までの穏やかな雰囲気ではなく、深刻そうなエレンの声色にリヴァイはなんだ、とエレンの方を見る。
エレンは緊張に身を固くした。リヴァイと二人きりになる事は滅多にない。聞いてみるのなら今しかないだろう。ドキドキと胸を押しつぶさんばかりの思いが自然とエレンの表情をこわばらせた。
「あの、兵長はなんでオレを特別扱いするんですか」
喉の奥が詰まっているかのようだ。たどたどしく言葉をどうにか吐きだせば、リヴァイは呆れたように息を吐く。
「前も言っただろうが、別に意味なんて」
これじゃあいつもと同じになってしまう。
いつものように冗談めいた茶化した口調のリヴァイにエレンは憤りを覚えた。折角二人きりなのに、これでは自分の気持ちにも白黒をつける事ができない。エレンは手綱を持っていない方の拳をぎゅうと握り込めた。
「そう言うことを聞きたいんじゃなくて、オレは」
初めて感じる緊張感にエレンの喉はカラカラに乾いていた。一度生唾を飲み込んで息を整える。
「オレは、貴方が、オレをどう思っているかを聞きたいんです」
「は……」
リヴァイの表情が崩れた。泣きそうな逃げ出しそうな顔をしていた。
「兵長、オレは……」
そうエレンは言いかけて言葉を止めた。エレンの言葉を遮るようにリヴァイが言葉を吐きだしたからだ。
「エレン、お前はまだ若い」
作り笑いを作っているかの如くリヴァイの口元は歪んでいた。困ったように寄せられた眉がエレンの次の言葉を牽制する。
「俺は、お前のことは」
しかしリヴァイの言葉はそこで途切れた。
リヴァイの表情が歪む。しかし先ほどのような苦笑いに表情を歪めているものとは違う。
「兵長?」
リヴァイの様子がおかしい、エレンは思わずリヴァイを呼ぶ。するとリヴァイの上半身が胸元を押さえるように丸まって、呼吸に合わせるように肩を上下させた。
「兵長!」
異常事態にエレンはさっと全身の血の気が引いていくのを感じた。
絡みつく手綱を放り出しエレンは馬から飛び降りる。
両腕を伸ばしてリヴァイのもとへ駆け寄るが、その身体を支えるよりも先にリヴァイの身体は地面に落下した。
どうすればいい? エレンは頭の中に何度も自問する。抱き上げたリヴァイの身体はずっしりと重い。
浅く何度も吐きだされる呼吸、その表情は苦痛に歪んでいる。
兵長、リヴァイ兵長。何度もエレンはその名前を呼んで顔を覗きこむ。リヴァイから防護用のゴーグルを外してやれば、弱弱しい目が充血していた。
しかし意識が朦朧としているリヴァイの目はエレンを捉えることすらできないようだ。焦点の合わない目でリヴァイはエレンの肩越しに遠くを見据えていた。
薄暗い森の中。青々と茂る草木をかき分けエレンはリヴァイを抱き抱える。
ずっしりとしたリヴァイの体重を腕に感じながら森を見上げれば深淵にいるような気分になる。
リヴァイを抱き抱え馬に乗る。早く皆のもとに戻らなければ。

「あら、エレン」
ペトラ達と別れた道の辺りまで戻ればのんびりとしたペトラの声。
しかし、今はそれどころではない。自分以外の誰かにようやく再会した安堵感を感じながらエレンはその声のもとへと急ぐ。
「兵長、どうしたんですか!」
抱き抱えたリヴァイを落とさぬよう移動すれば、彼女の高い声がリヴァイを呼んだ。
目を閉じたままエレンの胸元に持たれるように抱かれているリヴァイを見れば後ろに控えていたハンジも大きく目を見開いた。

あれから二日が過ぎた。リーダーが欠けていても訓練や日々の生活はいつものように行われていく。もっとも特別精鋭班としての訓練は中止になっている。
調査兵団の主戦力と言われるリヴァイが病床に臥せっている現在、兵団内はいつもより士気が下がっているように感じる。
エレンはあの後リヴァイは古城に着いてすぐに医療班に運ばれて以降まだ見かけていない。
原因不明で倒れたということで二次感染を防ぐ事も兼ねて面会は出来なかったのだ。
その間はずっと不安に苛まされていたエレンだが、面会の許可が下りるとエレンはすぐに病室のリヴァイのもとへと向かった。

調査兵団本部の中は静かだった。
廊下を歩けば日頃ならば気に留めることなどない足音が大きく響いている気がする。
廊下の窓に差し込む午後の日差しが廊下の床に光の影を落としているが今日は気温が低いのだろう。足元を這う空気が肌寒い。長く冷たい廊下を歩いて行けば見慣れた部屋に突き当たる。
不安のせいだろう、気分が重い。
閉ざされた扉を叩いてエレンはドアノブに手を掛けた。
「失礼します」
小さく挨拶をしながら部屋に入れば、そこにはハンジの姿と大きなカーテンで覆われたベッドが仰々しく鎮座していた。中には灯りを灯しているのだろう。青白い部屋の中にぼんやりとその場だけが浮かび上がっている。
こっちに来て。呼ばれるままにエレンは白いカーテンを潜り入っていく。

薄暗い空間の中、蝋燭の灯りだけがぼんやりと幻想的にリヴァイを照らしていた。
その表情に苦悶の色はなく、安らかに眠っているように見える。深刻な表情のハンジ達の様子から勝手にエレンの脳裏に最悪の事態がよぎる。
顔をこわばらせるエレンの様子に気が付いたのだろう。ハンジは片眉をあげてエレンの方に目を向けた。
「リヴァイは……」
「兵長は、大丈夫なんですか?」
ハンジがすべてを言い切る前にエレンはリヴァイのもとへ駆け寄った。
「安心して」
リヴァイを失う恐怖で神経が高ぶっているのだろう。怯えに手を震わせるエレンの心に滲みわたるようにハンジはゆっくりと言葉を紡ぐ。
「今は眠っているだけだよ」
その言葉にエレンの肩の緊張が解ける。薄眉がしゅんと垂れ下がり、少年の大きな瞳に涙の膜が薄く張る。
「エレン、大丈夫」
ハンジは深呼吸をしながらエレンを見つめる。
エレンの肩に両手を乗せたまま振り向いてリヴァイの方を向けば、エレンもそちらへ目を向ける。
最悪の事態を想像していた色眼鏡を外してよく見ればリヴァイの胸元は微かに動いている。
呼吸に上下する布団、わずかに震える睫毛。
微かながらの変化がリヴァイが生きていることを感じさせた。もともと血色のよくない顔色はいつもよりも悪いが、彼は生きている。
それを確認するとエレンは安堵の溜息を漏らした。
「よかった……、兵長」
エレンらしくもなく言葉が震えている。真下を向いて腕で目許を拭うエレンに、ハンジは困り眉のまま肩を抱く。
「エレン……」
意味深げにハンジはエレンの名を呼んだ。茶化しながらも巨人について語っているハンジとは同一人物には思えない重みのある呼びかけだった。
「あのね、リヴァイについて言わなければいけないことがあるんだ」
安堵から一転し、エレンの瞳には再び恐怖の色が宿った。
「こんな時にこんなことを聞いて良いか分からないんだけど、君たちは恋仲なんだよね」
「え、えっと」
ハンジの言葉に思わずエレンは口ごもる。
エレンはリヴァイの事を慕っており恋愛感情を持っているがリヴァイが自分をどう思っているかまでは聞けずじまいとなってしまい今では分からない。
「そ、それはわかりません」
「え、どういうこと」
「オレは、その、そう、って思っているんですが」
「てっきりそういう仲かと思っていたんだけど」
ハンジは後頭部を掻きながらエレンの方を見た。
「この間ね、リヴァイから頼まれごとをしたんだ。買い物に行くために許可が欲しいって」
エレンなら気づいているよね、とハンジは話を続ける。
「私はあまり君を連れ出さない方がいいんじゃないか、って思ったから買い物は誰かに頼もうか?って言ったんだけど彼は首を縦にふることはなかったよ」
「それは……」
「言い方はまわりくどかったけど、きっとエレンと一緒に歩きたかったみたいだね。彼があんな風に言うなんて珍しい」
「オレはてっきり荷物持ちの人出が足りないとばかり……」
「鈍いなぁ、君たちは」
「鈍い、ですか?」
「うん。なんにせよ、エレンには伝えないとって思っているんだけどいいかな?」
ハンジはいつになく真剣な顔でエレンを見た。冷静で精悍な顔つきをしている。

ハンジから感じる緊張感の重みに耐えかねてエレンは思わず生唾を飲んだ。
リヴァイに対する恋慕の情が露見した気恥ずかしさよりも今はそちらの緊張感の方が重く胸にのしかかっており、エレンの顔色は決して良くはない。しかしエレンはハンジの眼鏡の奥を見つめたまましっかりと頷いた。
「……エレン落ち着いて聞いて欲しい。様子はこの通り、静かに眠っているように見える」
頭を殴られたような気分になりながらもエレンは一字一句聞き逃さぬように神経をとがらせる。
「でも、リヴァイはここに戻って来てから一度も目を覚ましていない。そして何故こんな状態になっているのか原因もつかめていない。予測では何か感染症にかかっている可能性とかが考えられるのだけどまだはっきりとしたことは言えないんだ。だから、もしこのまま目覚めない状態が続くようなら……最悪の事態を覚悟して欲しい」
身体に浮遊感を感じた。
意識をしっかりと持たなければとしっかりと足の裏で地面を踏みしめるが現実感のない突如突きつけられた現実に心を閉ざしてしまいそうだ。
「もしも君たちが将来を共有していくつもりだったら別だったのかもしれないけれど、私はどうすればいいかな。エレン、君はリヴァイとどうしたい?」
突然の不幸に未来を真っ黒に塗りつぶされた気分だった。気分は巨人化から解かれた時よりも悪いと感じる。今は気持ちの整理をしたい、せめて考える時間が欲しい。
「ハンジさん……」
ようやく絞り出した声は自分で思う以上に落ち着いた静かな声だった。
「少し、ここで兵長と二人きりにしてもらえませんか」

「リヴァイ兵長」
エレンはリヴァイのベッドの脇から、ゆっくりとリヴァイを呼んだ。
まるでただ眠っているかのように安らかに目を閉じてリヴァイは呼吸をして、そこにいた。
つい先日まで訓練をして、食事や買い物をして共に過ごしていたということが嘘のようだ。苦しくもなく静かな寝息にほっとするが、顔色は青白く死ぬ間際の兵士を思い出してしまう。
「……っ」
くぅ、と喉が哭いた。歯を食いしばるが何も出来ない自分へのもどかしさ、リヴァイを失うかもしれない恐怖で胸が押し潰されそうに苦しい。
泣いて見ていることしかできない自分が悔しかった。
ぼろぼろと熱い涙がエレンの頬を濡らしていく。
リヴァイの手を握ってみるがそれが握り返されることはなかった。
「兵長、オレはあなたのことが」
安らかな寝顔にエレンの言葉が途切れる。
降り始めの雨のようにエレンの涙がリヴァイの頬に水玉を落とした。
諦めるように左右に首をふるとエレンは蝋燭の灯りをそっと消す。二人だけの静寂の空間が暗闇に満ちる。
「リヴァイ兵長?」
もう一度問いかけるがリヴァイが目覚める気配はない。
「オレ、この間言えなかったけど、貴方のことが……好きです」
目の中に涙が溜まる。
カーテンの薄暗い蝋燭の灯りのもとでエレンはリヴァイの頬を指先でなぞる。その頬はエレンの体温よりも幾分か冷たくてひんやりとしていた。
顔の曲線を確かめるように手の平を添わして顔を近づけて、筋張った首筋に触れる。触知する首筋の薄皮の温もりがリヴァイのうっすらとした生を感じさせる。
彼はまだ生きている。頸動脈に添えた指先が微かな生命のリズムを感じ取る。
エレンの前髪がリヴァイの頬にかかるが、リヴァイは微動だにしなかった。お互いの鼻息もささやかな産毛の動きも見える程にその距離は近い。
ゆっくりと、エレンはリヴァイのそれに己の唇を合わせた。目を閉じて唇の感触だけを追えば唇の生暖かさや彼自身の体温が感じられる。
触れるだけの口づけ。互いの吐息がゆったりと触れあってエレン自身の体温をあげた。

この口づけは勝手な一方的な愛情の押しつけである。
エレンは急に今自分自身のしている行為に後ろめたさに耐えかねて口付けを解いた。
衝動的にしてしまったキスを確かめるようにエレンは自分の唇を指でなぞる。まだ触れていたかったが、一方的な愛情表現は歓迎されるものではない。

現実から遠ざかっていた思考がしだいに冷静になってくるとようやく自分の行っていることの罪の重さに気がついて我に返る。
罪悪感に触れた唇を隠すように手の甲で唇に触れる。
眠っているリヴァイはエレンにキスをされたなどは知る由もなく眠っているだけだ。

「ごめんなさい」
エレンは目を伏せて薄暗い部屋の中で呟いた。
静けさの満ちる冷たい寝室にエレンは背を向けた。
涙が零れそうになるのを堪えながらリヴァイの部屋から立ち去さる。それはまるで後ろめたさから逃れるようでもあった。

いつまで経ってもエレンが戻ってこない。ハンジは心配になり、エレン達の様子を窺いに行くことにした。
部屋の中に入ればリヴァイ以外の人の気配はなく、カーテンの向こうに人影もない。エレンはすでに自室にでも戻ったのだろう。
戻るのなら言ってくれればいいのになぁとハンジは思いう。折角ここに来たのだから、とリヴァイの容態に変化がないか確認をすることにした。本来であれば医療班が時々様子を見てくれているが、仲間として心配だったのである。
「リヴァイ」
カーテンを捲りながらハンジはリヴァイの眠っているベッドへ向かった。
「あ」
カーテンの向こう側を覗いたハンジは小さく声を漏らした。驚いたような声には喜びが滲んでいる。
カーテンの中では淡い蝋燭の灯りに照らされて、リヴァイがぼんやりと目を開けて天井を見つめていた。
ハンジの様子に気が付いたのだろう、リヴァイの黒目がハンジの姿を捉えた。
「……」
「うそでしょ?」
思わずハンジはつぶやいた。
目を丸くするハンジを訝しげに睨み付けるとリヴァイはあたりを見回した。きっと今自分がおかれている状況を理解できていないのだろう。

ここがどこだかわからなくても無理はない。リヴァイは森の中で倒れて以来はじめて意識を取り戻したのだから。
おい、と地を這うような声がハンジを呼ぶ。酷く機嫌の悪そうな顔でリヴァイは続けた。
「おい……エレンはどこだ?」
二日間の昏睡状態から目覚めて始めて口にしたものがエレンだとは。ハンジの目元がきゅっと垂れる。
「わかったよ、リヴァイ。エレン呼んでくるから待っててよ」

その頃、エレンはぼんやりとした調子で自室の掃除をしていた。
自然光の入らない地下室では人工的な灯りと時計だけが、時間の流れを表している。
ぼんやりとエレンは時のながれなど気にも留めていない様子で過ごしていた。
雑巾を握る手は脱力しきっており、きちんと絞られておらず床のあちらこちらに雫を垂らしていた。
そんな静寂と気怠い雰囲気の空間に、トントンと軽い調子の足音が混ざる。
誰かが地下に降りてくる音にエレンははっと背を正した。
「エレン!」
大きな声が部屋の扉が開くと同時にエレンを呼んだ。
中性的な澄んだ声は、ハンジの声だ。
ハンジはまるで巨人の新しい情報を知ったかのように大きく目を開いてエレンの方に走り寄る。
眼鏡の奥を光らせてハンジは良く通る声で言った。

「リヴァイが目を覚ましたんだ!」

一瞬エレンの中で時が止まった感覚がした。
白黒の世界に色彩が取り戻されていくように靄のかかっていた視界が澄んでいく。
「へ……」
突然の吉報にエレンは眩暈すら覚えた。
先程までの落ち込んで腐りきった自分が嘘のようだ。
絞り切れていない雑巾を握ったままエレンは両手を床について驚きに口を開け閉めする。
金魚のようになって驚くエレンにハンジはさらに続けた。
「早く顔をだしてやってよ」
いい報告のはずなのにエレンはぎくりと肩を竦ませた。
すぐにでも会いたいと思うのだが、先ほどこっそりキスをしてしまった気まずさが込み上げる。

「あ、あの」
「ん?」
「今は部屋の掃除中なんで、その、後で……」
今は素直にリヴァイと向き合える自信がない。
起きてもとに戻ったのであればわざわざ合わなくとも大丈夫だろう。自分の気持ちの整理がついたら顔を合わせたい。
「そんなこと言わない。さあ行くよ」
まさかそんな事情があるとは知らないハンジはどうしたんだろうと言いたげにエレンの方を見る。
ここで引いてくれるだろうと考えたがエレンのその考えは甘かった。
会いたいんでしょ素直じゃないなとハンジは気持ちを見透かしたようにエレンの首根っこを掴むとそのままずるずるとエレンを引きずっていく。
あわあわと両手をばたつかせるがびくともしない。研究がメインかと思いきややはり調査兵団で務めるだけの体力はあるらしい。
「リヴァイだってエレンに会いたがっているよ」
「は? そんなことあるわけないじゃないですか!」
ハンジの確証もない誘い文句にエレンは思わず反発してしまう。
「あるよ。だってリヴァイったら起きた途端エレンはどこだ? なんて言ったんだよ?」
にやりと口角をあげるハンジの横顔をエレンは見上げる。
「ウソ……」
「本当。なんなら本人に訊いてみたらどうかな」
そんなこと訊けないですよ! と両目を覆いながら叫ぶエレンを見てハンジは愉快そうに笑った。

「リヴァイ、愛しのエレンを連れて来たよ!」
ハンジはリヴァイの部屋に入りながら言った。
リヴァイのベッドのカーテンはすっかり外されており部屋の中も自然光が差しており暖かい。
ハンジの大声にモブリットが呆れたように頭を抱えるがこれもいつも通りの光景だ。
上半身を起こしてリヴァイは読んでいた本を閉じエレンの方を向く。
部屋の入り口に立ちすくむエレンをハンジは石像の移動よろしく、背中を押してリヴァイの方へ近づける。
目を合わせないようにすれば唇が目に入り、更に視線を落とせば滑らかな首筋が視界に入る。
ベッドの脇にたてば小さなリヴァイがこちらを見上げる。挙動不審な様子にリヴァイは小首を傾げる。
あ、あの、とエレンは硬直した。
気まずさにこめかみに脂汗が浮かぶ。
「どうした?」
いつもと違うエレンの様子にリヴァイはエレンの手首を掴んだ。きゅと頼るように手を掴まれれば心臓が大きく跳ねて落ち着かない。
こっそりとした口づけを詫びようにも他に人がいる状況でそんな告白は出来ない。
「どうもしないです。でも、その」
ハンジ、モブリット、リヴァイ、エトセトラとエレンの視線はきょろきょろと定まらない。
「エレンよ。嘘は良くないと思うぞ?」
リヴァイは少し砕けた口調でそう言った。
「う、そなんてついてないです」
かぁぁと顔が熱くなるのを感じる。
不敵に笑うリヴァイは自身の耳を指さして言った。
「耳が赤くなってる」
この人は知らない、オレのしたことを。後悔の念に唇を噛みしめればリヴァイは心配そうに眉根を顰めた。
だが、再びこうして元気に冗談を言うリヴァイを見ると胸が熱くなる。
込み上げる色とりどりの感情に自分自身を落ち着かせるようにベッドの脇にある椅子に座ればリヴァイの手がこちらに伸びてきた。
「大丈夫か?」
リヴァイの指先がエレンの頬を拭う。
「兵長こそ……」
絞り出した声は震えていた。
「何泣いていやがる。辛気くせぇ面しやがって」
頬を伝う水滴にようやくエレンは自分が泣いていることに気が付いた。ぽろぽろと零れる涙が止まらない。
「いつまでも泣いてるんじゃねぇよ」
「うれしくって」
「とっととそのぐちゃぐちゃの面洗ってこい」
強がるリヴァイの声は震えている。
はい、とエレンは鼻声のまま答えた。

長かった夜が明け、ようやく朝が来た。
昨日までの気分の重さは嘘のように気分は軽い。
いつものように地下に向かってくる足音にうっとりと聞き入ってしまう。
「おはようございます」
エレンはにこりとベッドの中で目を開けてリヴァイに挨拶をする。

いつもであれば眠っているところを起こされている為、エレンが起きているなんて稀なことだった。
「起きてるなんて珍しいじゃねぇか」
嫌味混じりのリヴァイの台詞。しかしそれすらも今のエレンには嬉しいことであった。
にこにこと底抜けに明るい表情に、思わずリヴァイは後頭部を掻く。

「これはこれで張り合いがねぇな……さっさと起きろ。朝食にするぞ」
「はーい」

食堂へ向かえば、エレン以外は全員朝食を終えてしまっていたらしい。
エレンとリヴァイの食事だけが並んでいた。
「いつまでも寝やがって」
しゅんとするエレンの目の縁は昨日泣いたからだろう、腫れてほんのりと赤みが残っている。
「まぁ……たまには良いだろう」
後からエレン達の分の朝食は準備されたのだろう。
パンは暖かく、バターを塗れば、パンの上でバターは溶けて黄金色に香ばしいかおりを広げた。
まだ温かいスープに口を付ければトマトの酸味と胡椒の辛さがまだ起きたばかりのエレンの目を覚ます。
具材は殆ど入っていないが時々ランダムに口の中に飛び込んでくるレタスの甘味。
リヴァイの方を見れば小さな歯がパンを齧っているところだった。
パンの香ばしいかおりに温かな食卓。
何気なく、リヴァイの手元を見れば、そのスープ皿から湯気がたっていないことに気が付いた。
もしかしたら、と思わずエレンは口に出す。
「オレのこと待っててくれていたんですか?」
リヴァイは驚いたように目を大きく開くと、面白そうに「さあな」とだけ言った。
心を羽でくすぐられているようだ。何ともいい泡わせない気持ちにくしゃりエレンの顔が笑顔になる。

外を見れば太陽は高く昇り切っている。正午も過ぎたゆったりとした午後の時間。
リヴァイが倒れた騒動で、激しい訓練もなく漠然と時間が流れていたが、ようやく兵舎内に活気が戻り始めていた。

活気……と呼ぶよりも騒がしいほうが相応しい声が聞こえる。そちらへ目を向ければ、現在話題の中心にいる人物リヴァイがエレンと話をしていた。

「あの、兵長その格好って……まさかとは思いますが、もう掃除とか動き回っているんじゃないですよね」
「その通り、掃除中だが」

さらりとそんな事を言うリヴァイの片手には羽箒、そして三角巾や埃避けがしっかりと装備されている。
「よかった、まだ動きまわって……ってもう掃除してるんですか!」
いくらリヴァイが頑丈な作りをしているといっても昨日の今日で動き回るのは心配だ。しかしエレンの軽快なノリツッコミを無視してリヴァイはやる気を入れんばかりに腕まくりまでしてみせる。
「いつまでも寝てらんねぇからな。それに見てみろ」
口元の埃避けのマスクをずらしながらリヴァイは部屋に備え付けの椅子の背もたれを人差し指でなぞる。
「ここなんてこんなに埃が溜まっちまっている」
ほんのりと白くなった指先にふ、と息を掛けると忌々しそうに言った。

「でもまだ動き回って無理しないほうがいいんじゃないですか?」
「良いって言われたから問題ない」
そんなもんなのか、とエレンが釈然としない気持ちを抱えながらもリヴァイに連れられて地上へと向かう。こうなってしまったら簡単に彼を止めることは出来ないだろう。
しかし、地上へ上がればリヴァイを探し回っていたらしき医療班の者たちがこちらを見るなり目を丸くする。
「あ、兵長!」
「どこ行ってたんですか!」
「まだ休んでいてくださいって言われたじゃないですか」
さっきアンタ良いって言われたといったじゃないか! とエレンは心の中で叫ぶ。
じっとりとリヴァイを見れば、悪戯を叱られる子供のように目をキョロキョロさせて口ごもる。
「え、と……掃除に」
「兵長……、生き急ぎすぎです!」
何処かで聞いたような台詞だが思わずエレンはツッコミを入れた。

「俺はもう平気だ。それにいつまでも眠っていちゃ身体が鈍っちまうだろ」
言っていることは正論だけど、と頭を抱えるエレンを尻目にリヴァイは楽しそうにいつの間にか用意していた雑巾を絞り窓ガラスを拭き始めた。
「ちっ汚ぇな」
リヴァイはそう言って窓の曇りを見つけて、そこに手を伸ばす。あと一歩のところが届かないらしく、リヴァイは踏み台を持ってきて床に置いた。
そして踏み台に上り雑巾で丁寧に曇ったガラスを拭き始める。
「兵長、届かないところは言ってくださいよ」
「お前の手を借りずともそれ位届く」
悔しそうにリヴァイはエレンの方へ振り返る。
しかし病み上がりの影響だろうか、ふらりとリヴァイの視界がぶれる。
踏み台から体のバランスが崩れていく。本来立体機動を使いこなすほどのバランス力を持っているからこのようなことはあまり起こらない筈だ。
「あ」
だが、想像していた固い床の刺激ではなく、柔らかなものにリヴァイの身体は包み込まれた。
「大丈夫ですか?」
抱き込められるようにしてエレンに受け止められていたらしい。頭上を見上げれば困惑混じりのエレンがリヴァイを覗いていた。
「大丈夫だ」
まだ先日倒れた影響が残っているのだろうか。くらくらと平衡感覚の調子が悪い。
眼を擦ればぼやける視界が少しは改善するような気がしてくるが、その向こうでエレンが心配そうな表情を浮かべていた。
これ以上心配をかけたくない。先日倒れた原因はまだ分かっていないが、恐らく今起こしている眩暈も一時的なものだろう。
「問題ない。一瞬立ちくらみがしただけだ」
「大丈夫そうなら良いんですけど……」
「それより、いつまでこの体勢でいるつもりだ。そろそろ離せ」
「す、すみません」
エレンは申し訳なさそうに謝るが、もう少しこのままでいたいとも思う。
「あの、兵長……オレ。この間からずっと言いたいことがあって」
遠慮がちにエレンはリヴァイに話しかけた。この間、とは森の中での会話のことだろう。
まだエレンの腕の中に納まったままのリヴァイはなんだ? と聞き返す。
その声はどこか優しくて、この間のような突き放すような棘がない。エレンは決意したように声を絞り出す。
「オレ、兵長のことが……」
だが、運命のいたずらなのだろうか。
言葉の続きは陽気な科学者の声で掻き消されてしまった。

「ちょっとお二人さん、いいかな?」
突如現れたハンジに二人は大袈裟に肩をびくりとあげた。
リヴァイはエレンを突き放すように飛び起き、エレンは驚きに胸を押さえる。
そんなに驚かないで欲しいねとハンジは笑う。
「わかった事があるから私の部屋に来てもらってもいい?」

「わざわざ二人に集まってもらって悪いね」
ハンジはエレンとリヴァイにお茶の入ったカップを差し出しながら言った。
「はぁ」
「どうせ巨人の話だろ」
膝に手を置いて恐縮したように座るエレンと、面倒事はごめんだとでも言いたげに腕を組むリヴァイは対照的だ。
「ううん、今日はあなたたち二人の話だよ」
何故呼ばれたのか釈然としていないリヴァイに対してハンジは話を始める。
「なんだって俺が関係するんだ」
お前は人間じゃなく巨人専門だろうが、と続ければハンジは照れ臭そうに頭に手をあてながら説明を続ける。

「いやぁ。頑丈なあなたを倒れさせたものが何なのか、化学班で調べている連中がいてね。どうやらその原因が新しい細菌だってわかったみたいなんだ」
「で、それが俺達二人に何の関係があったんだ。まさか、このガキから変な病気が感染したとでも?」
「違う違う、その細菌ってどんなものなのかなって思ってね」
なるほど、とリヴァイは呟く。
巨人への興味が圧倒的なハンジが人間の病気に興味があったわけではなかったようだ。
周囲の医療班やハンジの部下たちが、リヴァイの病気について調べているのを見聞きして、巨人研究に応用できないか興味を持ってしまったとでもいうところだろう。
「だからこいつで試してみたってことか」
「本人には直接は試していないよ」
「当たり前だ」
「ちょっと多めにもらっておいた血液とかのサンプルを使って試してみただけだって」
「まったく」
「そ、それでオレと兵長に何の関係があるんですか」
「まぁまぁそう生き急がないで聞いてくれよ」
「その結果がこれだったんだ」
ハンジは数枚に渡るレポート用紙の束を取り出して二人の目の前に置いた。
「分厚い……ですね」
分厚いレポートの束にげんなりとした様子でエレンは言った。リヴァイも同様にめんどくさそうにそのレポート用紙の束を持ち上げたきりだ。
「やっぱり、そういう反応だね。うん。私からかいつまんで話してあげるよ」

報告書
・血液検査及び口腔より採取した唾液にて正体不明の微生物を発見。
・血液中よりも口腔に微生物は多く、唾液腺に潜んでいる可能性有り。リヴァイより採取した血液中、及び唾液中で病原体の生存及び増殖を確認。
・一方他人の血液で培養した結果すべての検体で病原体は死滅。
・さらにエレンより採取した血液及び唾液中では病原体死滅までの時間は半分以下であった。
・リヴァイより採取済の唾液および血液検体にエレンのものをそれぞれ混ぜ合わせた。
・混ぜ合わせたものに病原体を混和したところ、細菌数の減少が認められた。
・これらの結果よりエレン・イェーガーから採取した体液サンプルより、リヴァイ兵士長に感染した感染症の原因細菌を死滅させる特効薬が作成できる可能性が示された。

「……ということ」
ハンジは報告書の内容を一気に説明し終えるとエレン達の方を見る。だが、理解が追いついていないらしくエレンは助け船を求めるようにリヴァイの方へ目を遣った。
そんなエレンの期待に添えるように腕を組んでリヴァイはうんうんと二度ほど頷いて、ハンジを見据えた。そして。
「なるほど……よくわからん」と言った。
「えっ」
分かっているかと思いきやリヴァイも良く分かっていなかったらしい。
まったくしょうがないなぁ、とハンジはもう一度ゆっくりと話し始めた。
「つまりは……リヴァイには新しく変な病気が感染しているけど、それは他の人には感染らなそうってことが分かったの。それから、リヴァイの病気の特効薬がエレンの中にある可能性があるってことも分かったってことさ」
「わかった」
エレンもリヴァイの隣で深く頷いた。
「それで、我々が考えているのはエレンの唾液から特効薬を作らせて欲しいってことなんだ。精製に時間がかかるけどあって悪いものではない。実験結果からの推測だけれど、まだリヴァイの中には細菌はいて、増えている可能性が高い」
リヴァイは自分自身の腕を掴んだ。症状が落ち着いているが再発する可能性は確かにあるだろう。
しかし、今のところ体調に問題はない。しかし、最悪の事態に備えた保険があるのに越したことはないだろう。
後から聞いた話によれば倒れた際にはショックを起こしたように真っ青になり死にかけていた、ということらしい。
もしももう一度同じ状況に陥れば死んでしまう可能性だって考えられる。

人間はいつか死ぬ、とリヴァイは考えている。しかしこんな正体不明の病気で死ぬのは納得がいかない。
つまり現在の症状は落ち着いているが、再発する可能性はゼロではないということだ。
「わかった、頼んだ」
そう言えばハンジは嬉しそうに両手を合わせて瞳を輝かせた。ハンジの後ろでモブリットが頭を抱えている様子から推測するに、ハンジはついでに巨人の実験でも同時にやるつもりなのだろう。

探求心が強いのは構わないが困ったものだ。
リヴァイは両腕に大量の書類と薬品を運ぶモブリットたちに同情を覚える。
一方で、エレンはあの日、リヴァイに口づけをした事を思い出していた。
あの後にリヴァイは目を覚ましたのだから、もしかしたら。しかしそんな童話のような話があるはずがない、と思いついたことを打ち消すように頭を振った。
「エレン、どうした?」
挙動不審なエレンの様子にリヴァイは頭の上に疑問詞を浮かべながら言う。
「様子が変なところ悪いが掃除の続きでもするか」
実験室を右往左往するハンジの部下たちを横目にエレンの腕を引いたところでそれは思わぬ人物に妨害された。
「ちょっとまって。」
「ん?」
「少しだけ……血液ちょうだい」
注射器と試験管を構えてぎらつく眼を向けられれば逃げられる気がしない。
「わ、わかったからその鼻息どうにかしやがれ……!」

採血を終えた二人は腕を押さえて止血をしながら廊下を歩いていた。
「痛い……」
「注射如きでぴぃぴぃ喚くな、やかましい」
「兵長だって痛がっていたじゃないですか」
腕を押さえながら歩く二人の様子は傍から見れば少し滑稽だ。
「ま、まぁ針が太かったからな」
「針を細いのにしてくれって騒いでいたじゃないですか」
「気のせいだ」
都合の悪い事実を指摘されリヴァイは思わず視線を斜め下に逸らす。子供っぽい一面を見つけてエレンは嬉しそうに話を続ける。
「そういえばこの後ってお暇ですか?」
「特に用事はない。何だ?」
「この間、兵長がくれたお菓子があるのでよければ一緒にって思って」
だめですか? と潤んだ瞳に思わずリヴァイは仕方ないな、と承諾する。

窓の掃除は途中であったがいそいそと茶の準備をしに調理場に向かうエレンの後ろ姿を見れば、掃除をしようなどと言う気持ちは薄れてしまう。
やった、とエレンは両手を合わせて目を輝かせて喜んだ。若い後ろ姿はきらきらとしている。エレンの後ろ姿を見つめるリヴァイの瞳はどこまでも優しい。

エレンを見て高鳴る胸を抑え込むようにリヴァイはシャツの胸元を握りしめた。息苦しくなるほどの鼓動の正体は自覚している。けれども、それを年若いエレンに押し付けて感情の鎖で拘束するのは卑怯な気がした。
だから、せめてエレンに優しさを与えよう。これが恋に変わってしまう前に、親が子に無償の愛情を与えるように愛情で発散させてしまえば良いんだ。
胸の奥がぎゅうと詰まるような全身の血液が逆流するような感覚がふいに訪れた。
恋や愛の類ではない。生きている限り常に自分の隣に息をひそめる死神が、ふいにリヴァイの目の前に現れた。

嫌な予感ほど的中するものである。
自分自身の体調が一番自分が良く知っている。
倒れてから一度目覚めたあの日は体調がすっきりとしていたが、時間を追うごとに体調は少しずつ悪くなっていた。

すべて気のせい、病み上がりで体力が落ちている、と誤魔化してきた。
しかし鳩尾から這い上がるような不快な感覚は少し前に経験したものと同様のものだった。
窓掃除をしていてよろめいたのも、きっとこの謎の病原体が原因だったのだろう。
ぐらりと世界が回転した。酔いそうなほどの眩暈に目を開けていられない。
意識の端に聞きなれた足音に間抜けな声がして、こんな時だというのに安心してしまう。
リヴァイは自分の名前が呼ばれたような気がしてそちらに目を向けた。部屋の照明の眩しさの中にエレンが見つめているのをリヴァイは感じた。今リヴァイはエレンに抱き留められている。
俺もここまでなのか。最後をエレンの腕の中で過ごせるのならば悪くはないだろう。
酷い頭痛と眩暈と吐き気。
視界はどんどん白く霞んでいく。
追い掛けてくる死の恐怖を感じながらもリヴァイは意識を手放した。

エレンの目の前でリヴァイが倒れたのは二度目のことだ。
お茶の準備に向かおうと踏み出したその瞬間、呻き声が聞こえたのだ。
全身がばらばらになったかのようだ。振り向いてリヴァイのもとへ駆け寄るが、足が絡まっているように時間がゆっくりと進んでいるようだった。
「兵長」とエレンは叫ぶ。
蹲るリヴァイの肩を抱くと同時に、リヴァイの身体はまるで糸の切れた操り人形の如く脱力した。
一度目の時のように真っ青な顔をしたリヴァイが苦し気に息を荒げていた。
訓練兵時代の実習の授業を思い出しながらエレンはリヴァイの腕を掴み脈をとる。
鼓動は弱く、腕はひんやりと冷たい。唇は白く貧血状態のようになっていた。
これは突然の不調ではない筈だ。随分前から体調が好ましくないのを我慢していたのだろう。

ハンジの部屋のそばで倒れたからだろう。大きな音を聞きつけた男性兵士が慌てたようにこちらに駆け寄る。
絶望感に塗れた表情でエレンは男を見上げる。男はすぐに現状を察したらしい、ハンジに今起きたことを伝えると医療班のある方へと走って行った。
どうすればいいのか分からずにただエレンはリヴァイを抱きしめる。何もできずにいる自分自身がもどかしいが、リヴァイを失う恐怖に足が竦む。
ちらりと目線を変えればハンジの部屋の方に人が慌ただしく出入りする。医療班の者もいるらしく、医療器具や薬品が次々と運ばれてくる。エレンの耳に彼らの話し合いの声が聞こえる。

「そんなすぐに出来る筈ない!」
「精製にはあと数日はかかると思います」
「途中のものでいいから試しに使おう」
「それはあまりにも危険すぎる」

父親が医者といえども、エレンに医学の知識などは皆無だ。しかし現状から、リヴァイの手をとって分かるのは彼の命の灯りが消えかかっているということであった。
特効薬はなく今のままではリヴァイを助けることはできないということだ。
氷のように冷たい手の甲を温めるように両手でさする。意味のないことだと分っていても今すぐに出来る事なんてそれ位しか思いつかない。
エレンは現状把握以上のことはできないが、ふいにハンジの言葉を思い出した。
『リヴァイの病気の特効薬がエレンの中にある可能性があるってことも分かったってことさ』

断片的に報告書の内容、そして秘密にしていたリヴァイへのキスも一気に思い出す。
自分の体内物質がリヴァイを蝕む病へ対抗出来ることが唯一分かっている。エレンの中で散らばっていたひとつひとつの情報が一本の線で結ばれ、ひとつの可能性が浮かんだ。

たった一つ残された手段。そんな方法が成り立つとしたらそれはきっと、おとぎ話の世界だろう。
エレンはリヴァイの顔を見た。真っ白い唇が目に入る。青白く静かに横たわる姿の隣には永遠の眠りの影が息を潜めている。

エレンは最初にそうしたように顔に手を触れさせて唇を近づけた。
愛の口づけが死の淵にいる彼を救うなんて。
そんな魔法のようなこと起こるはずがない。エレンはぎゅっと目を瞑る。
でも、いつも守られてばかり来ていた自分自身が出来るかもしれない一つのこと。
もしも奇跡があるのなら、エレンは願いを込めてそっとリヴァイのそれに唇を触れさせた。
どうか、死なないで欲しい。愛しい人よ。
「リヴァイ兵長」
エレンは真っ青なリヴァイの横顔に声をかけた。
だけど、もしかしたら、とその顔を眺めるが何一つとして変化はない。
何もかも遅すぎたのだろうか。
時間はあったはずなのにいつまでも気持ちも伝えずに、そしてキスを勝手にしたことすら隠した自分を悔いた。
きらきらと流星のような涙がリヴァイのシャツへ染みを作る。
ふ、と風がエレンを慰めるようにエレンの頬をなでた。
いや、これは風じゃない。エレンは涙と鼻水でどろどろになった顔をあげる。
リヴァイの顔を見ればふるふると黒い睫が震えている。
頬の血色や心なしか手の平の温もりが戻ってきている。
リヴァイの目が薄っすらと開いて、黒目がじろり、とエレンを見つけた。
エレンは茫然としたようにリヴァイを見つめる。
「何、泣いていやがる……辛気臭ぇ面しやがって……」
信じられない、とでもいうように目を大きく見開くエレンにリヴァイは笑いかけた。
エレンから零れ落ちる涙がぽろぽろとリヴァイの頬に降り注ぐ。
リヴァイはエレンの顔に手を伸ばし、髪に触れ、口元を緩めて微笑んだ。
「兵長、好きです、大好きです」
鼻声のままエレンは言う。涙や鼻水が付くのも気にせずにリヴァイは立膝の状態で座っているエレンに縋りつくように抱き着いた。
「俺も、好きだ。エレン、ありがとう」
もう一回、とリヴァイはエレンの唇に触れながら口づけをねだる。
照れたようにくすくす笑うとエレンはそのままリヴァイのお願いに応じた。
まるで呪いの魔法が解けた二人の間を祝福するかのように、窓から太陽の光が射し込んでいる。

「医療班の連中に俺のことを伝えないとな」
自分の為に混乱状態の医療班の者を見て慌ててリヴァイは立ち上がった。
エレンの手首を掴んでいくぞ、とリヴァイは歩きだす。

「おい」
慌ただしく人の出入りするハンジの部屋へリヴァイは顔を覗かせた。
「え、え、エレン?リヴァイ?」
すっかり元気になって歩いているリヴァイを見て、ハンジは手持ちの書類をばさばさと取り落す。
「だ、大丈夫、ですか?」
ハンジの後ろからモブリットが恐るおそる尋ねる。
リヴァイは少しだけ顔を赤くしてハンジを見上げた。
「その……エレンのお蔭で治った」
「は?」
それだけでは何が起こったのか良くわからない、首を傾げるハンジにエレンがリヴァイに変わり話を始める。
「あの、その、オレがいれば問題ないみたいで……あの、オレがキスすれば大丈夫みたいなんです」
驚いたような表情のまま固まっているハンジに対してリヴァイはかぁぁっと顔を真っ赤にして俯いた。
「要するに……特効薬とかじゃなくって、エレンから直接特効薬をもらうってことかな?」
これはまるでお伽噺だ、とハンジは続けると独り言を言いながらそこら辺に落ちていた紙に思いついたことを書き出し始めた。

ハンジの実験スイッチが入ってしまったところで、しばらくまともに会話はできないだろう。
リヴァイはエレンの服の裾を引いて言った。
「エレン、戻るぞ」
「は、はい!」
「あの、兵長!」
エレンはリヴァイに一つだけ尋ねる。
「明日もキス、させてもらっても良いですか?」
「嫌だ」
その言葉にエレンは残念そうにしょぼんと肩を落とす。
しかしリヴァイは最後までよく聞け、と言葉を続けた。
「明日、じゃなく、ずっとだ」
エレンの目に光が宿る。
二人はお互いにどちらともなく手を繋ぎ合った。
いつまでも続く幸せを願うように。

おわり

発行日:2015年1月25日

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