鶴江渡 君とめぐる季節(サンプル)

原作沿い・鶴江渡
江渡貝くんが夕張炭鉱事故後も生きています。途中から原作軸からずれています。ハッピーエンドです。

自家通販→こちら

窓の外は穏やかな空が広がっており、青空の下に柔らかな緑と花々が春を知らせていた。
若い江渡貝にとって世界は広く、眩しく、瑞々しい。
江渡貝は穏やかな風の音に耳を澄ませる。微かに開けていた窓から入り込む風がカーテンを揺らしていた。
鶴見から偽物人皮製作を依頼されて以降、江渡貝は小さな手記に日々の記録を残していた。
日記の内容は剥製や偽物人皮製作のことや、日々の雑記である。江渡貝は鉛筆を唇の下にあて、昨日あった出来事を思い浮かべているところだった。
しかし、江渡貝の空想世界を打ち破るように大きな扉の開閉音が家の中に響き渡った。
またか、と江渡貝は顔を顰めた。
きっとこの大きな音の発生源は月島か前山だ。
乱暴に扉を開閉しないで欲しいと先日注意したばかりなのに。江渡貝は小さく溜息をつく。日記の続きを簡単に書き加え、日記帳を閉じた。
そして、日記を服のポケットにしまい立ち上がると江渡貝は玄関に向かう。
「扉は静かに閉めてくださいって、僕いつも言っているじゃないですか」
もう、前山さんですか、月島さんですかと、江渡貝は文句を言いながら廊下を行く。
すると、ふわりと食欲をそそる匂いが江渡貝の鼻腔をくすぐった。ちょうど、昼の時間も近い。美味しそうな匂いに江渡貝の腹の虫が目を覚ます。
「江渡貝くん、土産付きだ」
玄関先では鶴見、月島、前山が立っていた。二人の男を両脇に携え、鶴見は中央でにやりと笑っている。月島は片脇に丸めたゴザを抱え、前山は四人分の弁当を持っていた。
食べ物につられるほど軟弱な人間ではないぞ、と思いながらも、江渡貝の腹はぐぅと音を立てた。
「今日は花見日和だ」
そうだろ、江渡貝くぅんと鶴見は胸元に抱えている紙袋をがさがさ漁りながら言う。袋の中には団子が入っていたらしい。鶴見は悪人顔でにやり、と笑うと、片手で持ったみたらし団子をひと玉かじる。
空腹に訴えかけてくる、弁当のにおいに加え、尊敬する鶴見にそう言われれば、扉の開閉音なんて些細な事だ、と江渡貝の機嫌は上を向く。

鶴見からは花見という言葉とは程遠い不気味な雰囲気が漂っている。おどろおどろしい雰囲気といえども春を迎えようとする鶴見達は盛り上がっているようだ。
一方で、江渡貝は神妙な顔つきをしていた。
「お花見ですか……」
「気がすすまないかい?」
「お花見なんて、はじめてなのでどうしたら良いのか」
よく分からなくて、と江渡貝は呟いた。
病的に禁欲的な幼少期を送ってきた江渡貝は花見をしたことがなかった。友人もおらず、こういった時にどう振舞えば良いのかが分からないのだ。
「僕なんかが一緒にいって良いんですか?」
鶴見は不安げな表情を浮かべる江渡貝の肩をたたく。
「気負わなくていい。桜を見ながら弁当を食べるだけだ」
「そうそう」
鶴見は寂しげな空気を打ち消すようにからからと笑った。両手に弁当を抱える前山もふっくら笑っていた。いや、元々ふくふくした笑い顔なのかもしれないが。江渡貝もつられるように口角を上げた。
人というものは不思議なもので無理にでも笑顔を作れば気持ちが上向きになることも多い。

楽し気な鶴見たちの雰囲気にほだされた江渡貝はしゃんと背筋を伸ばすと、お弁当楽しみだなと歌うように言った。
すると江渡貝の声に同調するように猫の鳴き声が聞こえた。
いつの間に来たのだろうか、家に出入りしている猫が前山の足元をうろついていた。食べ物の匂いにつられてやってきたのだろう。
「君は留守番だ」
月島は猫の高さまで身を屈め猫に言う。猫は不満げな目を月島に向けると、無愛想にどこかへ立ち去って行った。
「さぁ、江渡貝くぅん。準備が整ったら花見に行こう」
鶴見は玄関の外へ指を向け、きらりとポーズを決める。江渡貝はちょっと待ってください、と言った。
自宅で作業していたため、今日の服装は自作の人皮のシャツにズボンを履いていた。シャツにはフリンジのようにあしらわれた指が数本生えており、膝丈ほどのズボンの中央部分には人の顔を縫い付けてある。
北海道で過ごすには少々寒いが部屋着として着るぶんには問題はない。江渡貝お気に入りの服装だが、人を素材にして作成しており、なおかつ独創的なデザイン故に、外に着ていけないところが難点だ。
そのため、高品質な部屋着と化している人皮服から、外に出ても問題のない服装に着替えることにした。
江渡貝はいつも着ているアーガイル模様のニットに茶色のズボンを合わせることにした。まだ肌寒い、厚手の冬の上着を羽織り江渡貝は身支度を済ませた。
「お待たせしましたぁ」
慌てて江渡貝は鶴見達のもとへ駆けていく。
「それじゃあ行こうか」
「はい」
江渡貝は、大きく頷くと人懐っこい笑顔を鶴見へ向けた。

江渡貝邸の玄関は雨除けの小さな屋根が設けられている。その為、春の日中は玄関から外は逆光となっており、薄暗い空間の中に外の光が四角く切り取られたように見える。
「眩しいですね」
薄暗い家の中から外へ出ると、春の陽射しに目が眩んだ。
「ところで、桜なんて咲いていましたっけ」
江渡貝の自宅前にはツツジの大株が花を咲かせているが、桜なんて咲いていただろうか。江渡貝は首を傾げた。
「ここから五分ほど歩いたところかな。山桜が咲いている」
鶴見は江渡貝の家から見える林の奥を指さした。
「へぇ、気付きませんでした」
薄暗い木々の奥に桜なんて咲いていたのか。そもそも積極的に外へ出る生活をしていなかったため、花を見に行くなんて思いも至らなかったようだ。
「ほら、見えてきた」
生い茂る緑の奥には、吹き抜けるような青空を背景に一本の山桜が生えていた。こんな場所があるなんて、江渡貝一人では気付かなかったかもしれない。
山桜の淡い花が幾重にも重なり、空を薄紅色に彩っている。柔らかな白肌に血管が透き通っているかのように色付いた花びらがふわふわと揺れていた。春風が吹くたびに山桜の花びらが舞い散っている。
「誰もいないな。木の下にしよう」
「ゴザを敷きます」
鶴見の言葉に月島は手慣れた手つきでゴザを開き地面へ広げた。その傍らで弁当箱を持ちそわそわし始める前山に江渡貝は尋ねた。
「お弁当って何が入っているんです?」
江渡貝は前山の手元を覗き見た。前山の手中にある竹の皮の箱の中は一体何が入っているのだろうか。
「おにぎり、卵焼き、黒豆、焼鮭、煮物だったはず」
「美味しそう」
前山の記憶力に感心しながらも、江渡貝は玄関先で一瞬感じた弁当の匂いを思い出し、生唾を飲み込んだ。
「ほら、二人とも早く来なさい。作りたてをお願いしたんだ」
鶴見に急き立てられ二人は靴を脱ぎ、ゴザの上に正座をした。一人ひとつ弁当箱を持つと、鶴見は弁当が行き渡ったか、と全員の手元を確認する。
弁当箱を持てば手のひらにしっかりした重さと、竹皮の弁当箱から香るどこか懐かしい香りにほっとする。作りたての弁当のぬくもりが、早春の冷気に冷えた手を温める。
食べることに感謝の意を示し、各々弁当箱を前に両手を合わせた。パキ、と割箸を割り、弁当箱の蓋を開けると色鮮やかに詰められたおかずが江渡貝を出迎える。
「いただきます! あぁ、美味しそう」
手のひらに収まる宝箱の中には、ふわりとした薄黄色の卵焼き、黒豆が行儀よく並んでいた。
紅鮭は見せつけるように、その身を弁当箱に横たえて江渡貝たちに食べられる時を待っていた。控え目な色合いだが、ダシの香りとともに弁当箱を彩る根菜たちも旨そうだ。
まず江渡貝は弁当箱の端で艶々と食欲を誘う黒豆を食べた。照りのある豆を一粒箸で摘まむ。舌の上を滑る豆の触感に続き、黒豆の香ばしいかおりが口の中に広がった。
少し芯のあるような噛み応えが心地いい。
じわりと広がる簡素ながらも、しっとりした甘味に思わず顔の筋肉が緩んだ。江渡貝が黒豆を食べているとなりで、鶴見は焼鮭に箸をつけていた。
つられるように江渡貝も鮭に箸を入れる。
美しく焼き色の付いた紅色の身はほろほろとほぐれ、湯気を上げていた。一口大にわけた鮭を口に運べば、鮭の塩気と旨味が舌を喜ばせた。新鮮な鮭を使っているのだろう。引き締まった身に箸が進む。
「鮭美味しいね」
鶴見の声に江渡貝は顔を上げた。口元をハンカチで拭い楽しげに鶴見は江渡貝へ目を向ける。
「ええ、ご飯がすすみます」
じっと見ていられると少々気まずい。江渡貝は視線を弁当箱へ戻しながら答えた。焼鮭の塩辛さに白飯が欲しくなる。
俵状に形成され行儀よく並ぶ白飯に目をやり江渡貝は生唾を飲み込んだ。
ふっくら炊き上がった艶々の米。不規則にならぶ白い小さな曲線美を箸に乗せ、口に運んだ。淡泊ながらもよく噛み締めれば、白米の甘味に頬が溶ける。
もう一口、もう一口とついつい箸が進む。
「こっちの煮物も美味しそうですね」
江渡貝は煮物の筍を取り、口に運んだ。
春先の若いタケノコは身が柔らかく苦みもなく美味しい。隣に並ぶ人参を食べてみる。こちらも甘い。素朴な味わいだが塩辛さの後には欲しくなる甘味だ。
程良い歯応えに甘味と鰹だしの塩梅が非常に良い。
弁当の隅を見れば静かに並ぶしば漬けがほんのり白米を赤く染めていた。誘われるように紅く色づいた白米を口に運ぶ。
まだ温かなご飯にしば漬けの塩見が移り、甘くて美味い。パリっとしたしば漬けを一口、そしてもう一度米を食べる。
「はぁぁ、美味しい」
弁当を食べて体温が上がったのだろう、江渡貝の頬は紅潮し口元はすっかり緩んでいる。
江渡貝は最後まで取っておいていた卵焼きを見た。
淡く柔らかな表面を眺め江渡貝は溜息を吐いた。
躊躇いながらも箸で二つに割れば規則的に重なり合う卵の断層が江渡貝を出迎えた。
一口食べてみれば、ふわりと甘いかおりが広がる。一旦箸を置くと江渡貝は溜息を吐き、江渡貝は目を細めて「あぁ、しあわせ」と声を震わせた。
満足げに艶々した江渡貝の頬に桜の花びらが触れた。青空に桜色がひらりと舞う。
「そういえば、桜もきれいでしたね」
手のひらを空へ向ければ舞い散る桜が一枚江渡貝の手のひらに降りてきた。
「今頃気づいたのか」
江渡貝くんは花より団子だなと月島は笑った。
よく見れば、月島は片手にお猪口を持っていた。そしていつの間に持ち込んだのか、日本酒の瓶を持っている。どうりでよく笑う筈だ、とニコニコしている月島を眺めた。
その横ではすっかり出来上がっている前山がお猪口を片手に左右に揺れていた。
月島の肩を乱暴に叩き、笑いながら前山は言う。
「まったく、月島さんったら呑み過ぎちゃぁ駄目ですよぉ」
「鶴見さんは飲まないんですか」
酔っぱらっている月島たちの隣で、鶴見はお猪口も持たず涼しげな顔で茶を飲んでいた。江渡貝は不思議に思い、思わず疑問を口にする
「あぁ、酒は苦手でね、甘酒くらいしか飲まないな。君は?」
来る時には気付かなかったが、鶴見は肩から水筒を掛けて持ってきていたらしい。飲むかい、と尋ねられ江渡貝はアルミ製のカップを受け取る。
「僕もお茶の方が好きです」
「そうかい」
ふふ、と笑い鶴見は傍らから茶色い包みを取り出した。
何だろう、と見ていると鶴見はそこから三色の花見団子を取り出した。江渡貝の玄関先で食べていたものと同じ店で買った物らしい。
江渡貝は差し出された串を受け取った
上新粉に色付けした団子は花見のお供にぴったりだ。
桜色のそれは甘く、もっちりしている。
「美味しいです」
「うん」
江渡貝は鶴見を盗み見る。もちもち頬を膨らませて団子を食べる様子が可愛らしいと思った。
団子を食べる鶴見をぼんやり見ていると、江渡貝の視線に気付いたらしい。鶴見は目を瞬かせた。
「どうしたの?」
「いえ、素敵だったので、つい」
見惚れてしまった、と言いかけたところで江渡貝は口をつぐんだ。見惚れていた、なんてまるで鶴見に惚れているようではないか。すると鶴見は宙を見上げ、そして江渡貝の視線の先へ目を向けた。
「あぁ、そうか。確かに桜が美しい。これは思わず見惚れてしまうな」
にこ、と微笑みかけられれば、胸の奥がじんわり温かくなる。頬が熱いのは食事をしているからだろうか。はにかんだ表情のまま江渡貝は手元の団子に視線を落とした。
「そ、そうですね」
「どれ、少し歩いてみるか。月島も前山もすっかり酔いどれになってしまったようだしなぁ」
よっこいしょ、と鶴見は立ち上がり、江渡貝へ手を差し伸べる。遠慮がちに江渡貝はその手を取り、鶴見を真似て、よいしょっと立ち上がった。
江渡貝邸へ向かう道は、深い林が影になり、昼間だというのに夕方の如く暗い。
その木々の小道を抜けてしまえば、この山桜をはじめに、明るく開けた場所に出る。日光を浴びてのびのびと育つ草花、そして少し歩いたところには藤の花が咲いていた。
藤棚は江渡貝が道内に越してくる前からあったものらしい。特に手をかけておらず、形こそ整っていないが、色鮮やかに紫色の花を咲かせていた。
「ここは藤の花まで咲いているんだね」
藤は藤棚から垂れ下がり、薄紫色のカーテンを作っていた。紫の花房が風に揺れていた。江渡貝はそちらへ駆け寄ると、花に触れるように空に手を伸ばす。
「通り抜けてみたいです」
江渡貝は鶴見のコートの袖を掴み、ツンと引いた。はにかんだ幼い表情で見上げられ、鶴見の表情が一瞬赤らんだ。

西洋人形のような顔立ちの青年の後ろを追うように、鶴見は紫色のトンネルを通る。短い藤棚だが、耳の横に触れる藤房がさらさらと音を立てている。
江渡貝は両手で紫の花に触れていた。柔らかな花を潰さぬように手のひらで包み込み、眺めている。
藤棚は数歩で通り抜けてしまったが、花を見上げる青年は絵になるなと鶴見は思った。きっと淡い紫色が彼の白い肌に似合うのだろう。
春は色に溢れている。厳しい冬の寒さに別れを告げて、春の世界は徐々に華やかに色付いている。
「さて、戻るか」
いつまでも色鮮やかな花を見ていたいような気もしたが、月島たちを置いてきてしまった。鶴見は名残惜しい気持ちもあったが、江渡貝に声をかけた。
藤棚から出たところには橙色の花が集まって咲いていた。その植物はオレンジ色で芥子の花によく似ている。茎には柔らかなうぶ毛が生えている。
「橙色が綺麗ですね」
橙色のちり紙のような質感の花はヒナゲシという。ケシ科の植物で四枚の花弁が八分咲きで咲く。
春風に揺れるヒナゲシは春の訪れを感じさせる。花言葉も恋の予感や思いやりといった暖かな言葉である。
太陽の光に透けた江渡貝の髪の毛もヒナゲシのような色をしており、花の群生が似合っていた。
「うん」
鶴見はその場にしゃがみ込み、頬杖を付き蜜柑色の花を眺めた。カワイイと鶴見は目を細めて頬を上げる。
江渡貝も鶴見の隣にしゃがみ込み、鶴見と目を見合わせるとにこりと笑った。
人差し指でヒナゲシの花びらを突けば、太陽を浴びた花びらはふわりとその場で揺れている。
「玄関に飾ってみようかな」
このまま太陽の光を浴びた花ごと持ち帰りたいと思ったからだ。きっと花を見るたびに今日のことを思い出す。
江渡貝は二輪だけ花を家に持ち帰ることにした。
「いいと思うよ」
そう言った鶴見の横顔に江渡貝はたしかに見蕩れていた。
そして、江渡貝は記憶に残すようにヒナゲシを一輪取ると手帳に挟み込んだ。

すでに本州では梅雨の季節だ。北海道では本州のような梅雨と呼ばれる季節はないものの、時々雨が降る。
昨晩から雨が降り続き空気が湿っている。雨足は弱く、ぽつぽつと雨粒が地面を叩く。
江渡貝と月島はそれぞれ片手に傘を持ち、空いている手で買い出しの荷物を持っていた。
道行には紫陽花の花が咲いていた。
紫陽花の花びらに見える部分は萼と呼ばれる装飾花である。萼の中心には新花が小さな花を咲かせている。
大きく開いた装飾花の中央部は淡い青色をしており、外に向かうにつれ、滲むように紫色に染まっていた。
ぎざぎざした葉の部分は雨粒を受け、瑞々しく天を仰いでいる。紫陽花は水分を好む植物だ。それ故に雨降りの日の方が紫陽花は美しく咲く花である。
ふいに浮かんだ思いを江渡貝は口にする。
「鶴見さんに見せてあげたいな」
少し持ち帰ったらダメですよね、と江渡貝は花を突く。
「あぁ。だが、手折った花よりも、せっかく咲いているのだから、ここに見に来ればいいじゃないか」
「なるほど」
でも、鶴見さん来てくれますかね? 江渡貝は答えを探るようにじっと自分の手の甲を見た。
月島の言う通りに鶴見を誘いたい。けれども、大した理由もなく彼を誘うのは少し照れ臭かった。
それに道内を東へ西へと移動しているような人だ。夕張に篭っている剥製職人とのんびり話をしているほど暇ではないだろう。
「鶴見中尉殿は今日も君の護衛を兼ねてここにいらっしゃるから誘っても大丈夫だ」
鶴見の予定が空いているとはいえ、外は雨が降っている。雨足は弱いが、人を散歩に誘うような天気ではない。江渡貝は困った顔をして水溜まりを見た。
「でも雨も降っていますし」
「雨傘ならあるだろ」
「あ、ありますけど」
「二人で散歩でもしてくればいいじゃないか。息抜きになる」
月島は江渡貝を横目で見た。
そうだ、散歩くらい素直に誘えばいいじゃないか、と江渡貝は自分自身に問いかける。紫陽花を見に彼を誘うことに、やましいことは一つもない。
「傘なら、これを使うと良い。二人で入るにはこれで十分だ」
月島は自身が差している大振りの傘を顎で指した。
といえども、月島が使っている物も、江渡貝が持っている傘は、もともと江渡貝の私物である。
「え、傘ひとつですか……?」
傘が一つでは鶴見と近距離で肩を並べて歩くことになってしまう。嫌なわけではない、しかしその状況を思い浮かべれば、不思議と頬が熱くなる。
「ひとつでいいだろ」
月島に念押しされれば、それが正しいように思えた。
言い訳をするのならば月島にそうしろと言われたからと言えば良いのだから。
「こちらの傘は俺が持っていくから、それしかなかったと言えば良い」
半ば強引に言い切られ、江渡貝は諦めてため息を吐いた。あの人を誘いたいが、何故か躊躇してしまう。
どうして照れ臭いと思ってしまうのだろう。ただ、紫陽花を見たいだけなのだ、彼と一緒に。そもそも、二人で花でも見ませんか、なんてまるで逢瀬の誘いのようである。
鶴見を好いているのだろうか、と考えたところで江渡貝はその考えを打ち消すように頭を左右に振った。
「え、江渡貝?」
「なんでもないですっ」
江渡貝は自分自身にも言い聞かせるようにもう一度小さく何でもないんですから、と呟いた。

雨天の中、木々が生い茂る暗い道を行けば江渡貝の家が見えてくる。雨を吸った草木がひっそりと佇んでいた。
江渡貝たちは玄関先の屋根の下で傘を畳んだ。風呂敷を持ち直し木の扉を開けば湿度で膨らんだ扉がきぃと音を立てた。
「静かに閉めてくださいよ」
江渡貝の言葉に月島は面倒臭そうに返事をするといつもより幾分丁寧に扉を閉める。
「はぁ、重かった」
荷物を両手で持ち、玄関に上がろうとすれば、家の奥から鶴見がぬぅと現れた。
「鶴見中尉殿」
月島は風呂敷堤を両手で持ち背を伸ばして言った。
「あぁ、月島か。どうした?」
すると、月島は江渡貝の背中をつついた。ほら、早く言いなさいと言われるが心の準備が出来ていない。鶴見へ話しかけるのを躊躇う江渡貝に代わり月島が声を上げた。
「江渡貝くん、鶴見中尉に用事があったんだろ」
「用事ってほどじゃ」
ないんですけど、と江渡貝が言い出す間もなく、強引に月島に背中を押され、江渡貝はつんのめるようにして鶴見の前に立つ。
「あの、えっと……」
江渡貝はおどおどと指を絡めて口ごもった。脂汗をかきながら、どう話を切り出そうかと視線を左右に揺らす。
じろりと鶴見の黒い両目が江渡貝を見た。これではまるで蛇に睨みつけられた蛙のようだ。
「あじさいを」
江渡貝自身が思うより枯れた声が出た。
緊張で喉が渇いているのだ。
「うん」
紫陽花が何だと言うのだ。次の言葉は何だったか、と江渡貝は煮詰まった頭で考える。
頭に霧でもかかっているのだろうか。霧のかかった脳内に落ちている言葉を拾い上げながら江渡貝は慎重に口を開く。
「紫陽花を、見にいきたくって、鶴見さんと」
まるで幼子のような言い方だ。羞恥心で首のあたりがかっと熱くなる。
そもそもこんな用事に鶴見は付き合う筈がない。江渡貝は視線を下に落としたまま両手を強く握った。
「良いよ、行こうか」
「雨ですしやっぱり駄目ですよ、ね……って、い、いいんですか!」
雨なんだから仕方ない……と思い掛けていたが、それが聞き間違いであることを一歩遅れて江渡貝の脳が感知する。
思わぬ鶴見の承諾に江渡貝は目を輝かせた。江渡貝が瞬きをするたびに長い睫毛がぱさぱさ揺れる。
江渡貝の後ろでは月島が安堵の表情を浮かべていた。
月島は荷物を玄関先に置くと、先ほど帰ってきたばかりだというのに傘を片手に玄関の外へ向かう。
「鶴見中尉殿、俺も傘を使いたいので、お二人でそちらを使ってください」
「え、月島さん?」
わけも分からず硬直する江渡貝に月島は耳打ちした。鶴見中尉殿と二人になりたいんだろ、良いから二人で出かけてこい。
月島さんは一体何を言っているのだろう。江渡貝は月島の言葉にぎゅ、と胸が締め付けられるような気がした。江渡貝は鼓動の早くなる心臓に戸惑いながら鶴見を見上げた。
「あの……」
鶴見は江渡貝の次の言葉を待たずに歩き出していた。行こうか、と促され江渡貝も玄関の外へ出て雨傘を広げた。
江渡貝の差した傘に鶴見もひょいと入る。鶴見の方がやや背が高い、江渡貝は傘を高めに持った。
「狭くて、すみません」
「傘を持つのを変わろうか」
鶴見は傘の柄に触れた。指先が触れて慌てて江渡貝は手を避ける。二人の身長差を考えると、鶴見が持っている方がお互いに歩きやすいはずだ。
お願いしますと江渡貝は傘を鶴見に渡した。一歩離れた距離感が心地良い。
だが、鶴見は江渡貝の肩に触れ、江渡貝の体を引き寄せた。半歩近づいた距離に心臓が跳ねる。
「もう少し近くにきなさい、肩が濡れてしまう」
「わ……」
江渡貝は小さく声を上げて、そのまま頷いた。
急な鶴見の接近に緊張してしまう。どうにも落ち着かないが、このまま隣にいたいとも思ってしまう。もっと近付いて歩いてみたい。江渡貝は横目で鶴見を盗み見た。
くっきりと高い鼻に、丁寧に剃られた口髭、顎先から首にかけての輪郭は鋭い。額の皮膚と比べると随分と白い肌、赤い唇は弧を描いており美しく、思わず触れたくなった。
あぁ、この人を好きだ。
「え……」
江渡貝は突然の恋心の自覚に思わず声を上げた。
その瞬間、江渡貝の頭の中は真っ白になった。まるで雨の世界に二人きりの静寂の中にいるような気がした。
先刻、月島と話していた時には打ち消した想いであったが、本人を目の前に、自覚した恋心からは逃げ出せそうにもなかった。もう自分の気持ちに嘘はつけなかった。
「江渡貝くん?」
鶴見に名を呼ばれて江渡貝ははっと我に帰った。心配そうに至近距離で見つめられれば脈が上がる。
恥ずかしくて堪らない。目を逸らしたい、けれども目を逸らしたら恋心が見透かされてしまいそうな気がした。
照れ臭くて恥ずかしくて、けれども嬉しい。
「何でもないです。そうそう、もう少し歩くと紫陽花があるんです。綺麗だから一番に鶴見さんに見せ、た……くて」
「そうか」
江渡貝の声が次第に小さくなっていった。こんな事を言ったら、鶴見はこの気持ちに気付いてしまうかもしれない。真っ赤な顔で江渡貝は顔を伏せた。
「嬉しいよ、君が誘ってくれて」
それだけの言葉のはずなのに、すべてを受け入れられていると感じてしまう。
どうしてこの人は一番欲しい言葉をくれるのだろう。気を抜けばこのまま彼に抱きついて好きだと言ってしまいそうだった。
「いえ……」
江渡貝は足元の水溜りを蹴った。ぱしゃと跳ねた雨水がズボンの裾を濡らす。
「あぁ、もしかして江渡貝くんが言っていた紫陽花はあれかな」
「そう、あれです」
雨降りの灰色の午後の世界に紫陽花の花が咲いていた。雨水を含んだ葉は瑞々しく肉厚な花弁はぼんやりと藍色を発色させている。
指先で花弁に触れれば、水滴がぽつりと落ちた。
鶴見は江渡貝の横顔をちらりと見た。
「うん、綺麗だ」
「あ……はい」
気恥ずかしくて、思わず声が裏返った。気まずい沈黙に江渡貝はどうにか話題を出そうと思案する。
「今日は雨が降っていますね」
このまま黙っているのもおかしいだろう。
江渡貝は必死に鶴見との共通の話題を記憶の中から探し出す。そういえば、と以前渡した手袋のことを思い出した。見つかった会話の糸口を手繰り寄せながら江渡貝は話し始めた。
「そ、そういえば今日は手袋を付けてきていないですよね」
「うん。雨水で汚れてしまっては勿体ないからね」
それなら良かった、と江渡貝は胸を撫で下ろした。
「雨の日にこの手袋は向いていないんです」
「そうなのかい?」
気を遣って雨の日の使用は控えてくれているようだが、念のため、と江渡貝は言葉を続けた。
「鶴見さん、この手袋濡らした時は気をつけてくださいね。あるものに触れてしまうと黒く変色してしまうんです」
江渡貝が皮製品を作る際にこだわっているのはタンニンを使った皮の鞣し方法だ。
人肌に触れる製品に向いている鞣し方法なのだが、一旦水に濡れてしまうと変色してしまうという欠点がある。
「へぇ。何に触れるとダメなのかい」
「鉄です。濡れると滲み出たタンニンが金属に反応して黒く変色してしまうんです。鉄の茶器や食器なんかは注意が必要ですね」
「ふむ……」
「でも使い込めば使い込むほど、艶が出てきて肌に馴染んでいくんです」
革製品は丁寧に取り扱えば経年と共に美しい色合いに成長していくものだ。江渡貝は手袋に自分自身の影を重ねながら言葉を続けた。
「だから、大切にしてくださいね」
感情を抑え、言葉にしたのだろう。しかしながら、その声は甘く、色付いた瞳までは隠せていなかった。
鶴見は江渡貝の手を引き寄せた。急な接近に戸惑う江渡貝をよそに鶴見は江渡貝の手を握る。
「大切にするよ」
「えっと」
何を、と聞きたくなる視線を感じながらも江渡貝は鶴見を見上げる。次の言葉を紡ぐ前に鶴見の手は蝶々のようにひらりと江渡貝の手から離れていった。
鶴見は傘を外し、掌を空に向ける。雲の切れ間から太陽のひかりが差し込み地上を照らす。
「おや……晴れてきた」
紫陽花の葉の水滴が太陽に反射した。光る草木が眩しいと江渡貝は目を細める。傘を外しても、江渡貝は鶴見と肩を並べて紫陽花の藍色を眺めていた。

六月の北海道は涼しい、筈だった。
先日から振り続けた雨から一転し、夕張では燦々と太陽が熱気を降り注いでいた。
しかし、江渡貝は、暑さなどは気にも留めずに作業場で黙々と作業を続けていた。
一度作業を進めてしまうと、江渡貝は作業場にこもってしまう。そのため、洋館の中は静かだ。江渡貝の剥製達は生き生きとしているが、その風景が尚更、静けさに拍車をかけている。
だが、十二時を超えると江渡貝は作業場から顔を出し、昼食を作り始めるため、江渡貝邸の時間は動き出す。
「みなさん、ごはんにしますよ」
江渡貝は作業をしている工房から顔を出すと、家の中を警備している月島達を呼んだ。
「今日は素麺です」
江渡貝は素麺が好物らしい。
月島はこの家に来てからの素麺の出現率に複雑な気持ちを抱えながら江渡貝邸の台所へ向かった。
何か手伝うことはあるか、と台所を覗けば、すでに蒸し暑い部屋の中で鶴見と江渡貝が素麺と戦っていた。
江渡貝は沸々煮立つ鍋を前に両手に素麺を持ち、鍋に素麺を投げ込んでいるところだった。
ぱらり、と素麺を鍋に投げ入れると、江渡貝は慣れた手つきで菜箸を片手に鍋の中をかき混ぜ始めた。
素麺と格闘する江渡貝の隣で、鶴見は青ネギを一心不乱に刻んでいた。
江渡貝は菜箸をかき回し、その隣で鶴見は腕まくりをして、薬味のネギを刻んでいる。台所という名の戦場には素麺を茹でる淡い香りとネギのにおいが広がっていた。
月島は自分の上官がネギを刻む姿に不思議な気持ちを覚えながらもそちらを呆然と眺めていた。
すると月島の存在に気が付いたらしい、江渡貝は空いた手で小鉢を指さした。
「素麺のお皿をテーブルに運んで、それから、そこのめんつゆも運んで置いてください。素麺はすぐに煮えてしまうから、手を離せないんです」
江渡貝は鍋を監視しながら月島に指示を出す。この場を取り仕切っているのは江渡貝なのだ。
「わかった」
月島はめんつゆと皿を持つと長テーブルのある江渡貝の家族たちの並ぶ部屋へと向かった。
「そろそろ良いのではないかね! 江渡貝くん!」
鶴見は薬味を刻む手を止めて、江渡貝の横にざるを手渡した。江渡貝はちょこちょこと鶴見の隣につくと、流しへ鍋を移動させ、素麺を鍋からざるへ開けた。ふぅ、と一息ついた二人は同時にハンカチで額の汗を拭う。
「うぅ、暑い……」
汗を拭い江渡貝は顔を上げた。ちょうど窓の見える位置に江渡貝自身と鶴見が隣り合って並んでいる様子が窓ガラスに映り込んでいた。
ただ、隣にいるだけだ。けれども第三者から見た自分たちはこんな風に並んでいるのか。江渡貝は何故か、急に切ないような、もどかしいような、けれども誰かに自慢したい気分になった。
きっと鶴見はザルを見ていてこれには気付いていない。硝子に映って見える二人の距離はいつもより近い。
今は二人きりだ。いつか好きだと伝えたい、と江渡貝は考えながら素麺を冷やしていた。
手元の素麺を冷水の中でもみながらもやもやと終わりのない考え事をする。
もしも、今突然、恋い慕っておりますなんて伝えたら鶴見は笑うだろうか。
そもそもこんな素麺を作っている中で言うなんて情緒のかけらもない、冗談だと思われて終わるだろう。悶々と素麺をもみながら江渡貝は物思いに耽(ふけ)る。
「江渡貝くん、どうかしたのかね」
背後に人の気配を感じ、我に返る。江渡貝の真横には、鶴見の顔があった。江渡貝の肩口から手元を覗き込むようにして立っている鶴見に対し、江渡貝は目を見開いた。
鶴見の接近に驚いたらしい。江渡貝の肩が跳ね上がる。
「わわっ」
まるで背後から包まれているような状況に江渡貝は思わず声を上げた。
大げさな反応を示す江渡貝に対し、鶴見は愉快そうに目を細めて江渡貝の様子を眺めていた。
髪の毛先まで観察するように凝視され、江渡貝は困ったように眉を下げた。しかし、今の状況を満更でもないと思っているようだ。
「あの、鶴見さん」

江渡貝は何か覚悟をしたような表情で鶴見の前に立つが、廊下から聞こえる人の足音に我に返った。
「そ、そうめんの水切らなきゃ!」
江渡貝は慌てて鶴見から身体を離し、たどたどしい手つきで素麺の水切りをする。
誰かに見つかりでもしたら、何と言われるか分からない。心臓は未だに、どきどきと脈打っていた。顔が熱い、それは素麺を茹でていたからだけではないだろう。
「江渡貝くん、素麺茹で上がった?」
台所の外からひょこっと覗くのは前山だった。
「ゆ、茹で上がりましたよ、もう少し待っててください」
江渡貝は平静を装い答えた。未だに心臓は激しく脈打っており、一巻きずつ素麺を並べる手は少し震えていた。
江渡貝の出身地域の奈良では素麺の上に錦糸卵や刻み野菜を乗せたものも多いが、今回用意した昼食はめんつゆに素麺を付けるものにしている。
今日のような蒸し暑い日にはこれくらいあっさりしたものが良いと思ったからだ。
「おまたせしました」
江渡貝が食卓へ戻ると月島と前山はすでに隣同士着席しており、何やら雑談をしているようであった。

江渡貝自身が置いていた剥製作品は椅子に座っており、隣り合った二人分の席に取り分けの小鉢と箸が並んでいた。
「いただきます」
早速月島は白く艶やかにしっとりと皿に横たわる素麺を一巻き箸に取る。
ダシのきいためんつゆにつけて、そのまま素麺をすする。最近は素麺ばかりだ、と釈然としない気持ちだった月島だが、今日のような暑い日にはこれくらいあっさりしたものの方がちょうど良い。薬味に使ったネギの香りが食欲をそそる。
「あ」
唐突に声を上げる江渡貝の方へ目をやれば、箸の先にはつながったままのネギが垂れ下がっていた。
「鶴見さん」
江渡貝は頬を膨らませて鶴見へネギを見せつける。
「せんが甘かったかな」
鶴見は照れ臭そうにそういうと江渡貝の箸へ口を付け、ネギを食べてしまった。
「え?」
たかが箸に口を付けただけだ。江渡貝は口を半開きにしたまま自分自身に言い聞かせる。
「食べちゃまずかったかな?」

そんなに真っ赤な顔して怒らなくてもいいじゃないか、と鶴見は頬杖をついて江渡貝を横目で眺めた。もちろん、江渡貝が赤面している理由は怒りからではない。
鶴見が口付けた箸だ。ただそれだけの箸だ。江渡貝は自分自身にそう言い聞かせながらもそこに口付けるのを躊躇っていた。
「ほら、早く食べないと素麺が冷めてしまうよ」
「素麺は冷えませんよ、鶴見中尉」
ふふ、と笑う鶴見に対し、月島は表情も変えずに突っ込みを入れる。江渡貝は真っ赤な顔のまま素麺を掴んだ箸に口を付ける。付けてしまえばなんてことはない。
しかし、間接的といえども鶴見の口付けたものに唇で触れるのはどこか背徳的で、刺激的な行為だった。
素麺を食べているだけだ。江渡貝は自分自身にそう言い聞かせながら箸を握った。

食事を終えた江渡貝は、後片付けのために食器を台所へ運んでいた。
「江渡貝くん」
ぽん、と江渡貝の肩に鶴見は手を置いた。
鶴見の横顔が触れそうなほど近い。想い人の急接近に驚いたのだろう。
食器が江渡貝の手の上で揺れてがちゃがちゃと音を立てる。
大丈夫かい、と鶴見は江渡貝の横を通り抜けると、持っていた食器を半分手にとった。
鶴見は「手伝おうか」と江渡貝の空いた片手を手で包み込んだ。ぎゅ、と強く手を握られダンスの誘いのような口ぶりで言われれば江渡貝は何の疑いもなく頷いた。
ワルツのような足取りで台所へ向かい、調理机に食器を置いた。お互いの片手が空いたところで、江渡貝は鶴見に引き寄せられた。
「久しぶりですね」
「そうかもしれんな」
手を揺らされながら江渡貝は踊りなんては知りません、と恥ずかしそうに言った。
「この間も踊れたのだから、大丈夫」
鶴見の片手は江渡貝の手を柔らかく包み、もう片方では肩を支えていた。何の脈絡もなく始まるステップに戸惑いながらも、江渡貝はその流れに身を任せた。
先導されるまま、江渡貝は体の重心を変え、鶴見に身体を預けた。これから進む先を見据える鶴見の横顔はすぐ隣にあった。江渡貝の心臓が跳ねる。
「手は卵を持つ程度、そう力を抜いて。難しいことは知らなくていい。私の足の行く方についてきてごらん」
江渡貝は鶴見に言われるままに足を出した。
彼の体のバランスが前に傾いて江渡貝に次の行き先を教えた。導かれるままに全身を彼に預けるようにしてステップを踏んだ。足取りが崩れることはない。鶴見がリードしているからだ。
江渡貝は上を向き、前を向いている鶴見の横顔をじっと見つめた。踊っているせいだろう、こめかみに汗が伝った。
触れ合っている手のひらが汗ばんできてしまう。
初めて鶴見とダンスを踊った時にはグローブをしており意識していなかったが、血の通った人の肌はこんなにも熱い。
「江渡貝くぅん」
肩から背を撫でられ、江渡貝は体を強張らせた。
もっと力を抜いてワルツなのだから流れるように、と鶴見は耳元で囁いた。はい、と江渡貝は答えた。少し頷けば鶴見の肩に顎が触れた。
息を合わせるように身を動かせば、滑らかに二人の体は回る。目を見つめ合わせれば、広い台所は舞台に変わる。
「やっとこっちを見てくれたね」
「へ……」
何のことかと首を傾げれば、何でもないよと鶴見は話をはぐらかした。
「そういえば、偽物人皮は進んでいるかね」
「刺青の図案までは進みました。次は……」
江渡貝は足元を見つめながら背筋を伸ばし、遠くを見つめた。刺青の図案までの準備は整っているが、刺青が入った皮膚のように染める手技は未だ定まっていない。
心の乱れが動きに出てしまったのだろう。
江渡貝はステップを踏み外し、バランスを崩した。鶴見は一歩下がり、重心を支える手の位置を変える。
江渡貝自身も自分の体を支えるために棚に手を付いていた。だが、棚には置いていたテーブルクロスが置いてあった。
机とテーブルクロスに体重がかかり、江渡貝の手は布ごとつるりと机の上を滑り再びバランスを崩した。
「おっと、危ない」
江渡貝は体ごと倒れる寸前で、鶴見に身を引き寄せられた。直前に慌ててつかんだテーブルクロスは江渡貝の手からスカートのようにひらりと広がった。
「大丈夫かい」
腰を支えられたまま、江渡貝は「はい」と答えた。
「あまり、うまく進められていないんです。ごめんなさい」
江渡貝は気弱に俯いた。
しかし、鶴見は江渡貝の手を強く握り、江渡貝の華奢な体躯を引き寄せながら言った。
「そんなことはない、君は天才だ」
その勢いに任せ、鶴見に抱き着くように身を回せば、テーブルクロスは白い芥子の花びらの形に膨らんだ。
片手でテーブルクロスを持ったまま江渡貝と鶴見は見つめあっていた。色素の薄い江渡貝の瞳が外を向く。
鶴見はおもむろにその場にしゃがむと床についている布の端と、江渡貝の持っている方の端を合わせ、その布を江渡貝の腰に巻き付けた。
「鶴見さん?」
「江渡貝くんの作った人皮のドレスも美しかったな」
どうやら鶴見はテーブルクロスを江渡貝の腰に巻き付けてスカートを模ろうとしていたらしい。鶴見の言葉に江渡貝は瞳を甘くする。鶴見は器用にテーブルクロスのギャザーを寄せ、形を整えた。
「やはり、素人には難しいな」
「ここを引き上げれば、体のラインに沿って動きが出ると思います。本当は縫い留めると綺麗なんですけれど」
細い指先がスカートの形を整えれば、江渡貝の腰のラインから薔薇の花のように曲線にスカートが仕立てあがった。
テーブルクロスをスカート代わりに身に着けた江渡貝は鶴見の前でくるりと一周回ってみせた。
「おいで、江渡貝くん」
誘われるままに江渡貝は鶴見の腕に触れた。
黒い肋骨服の鶴見に、白いテーブルクロスを纏った江渡貝が怪しげに踊り始める。
鶴見は江渡貝の両脇に手を差し入れるとそのまま江渡貝の体を持ち上げた。
鶴見の動きに合わせ、抱きつくようなバランスで片足を浮かせれば、世界が回り、ふわりとコットンのチュチュがダンスホールに白い花を咲かせる。
片足ずつ着地した江渡貝は、片足を主軸にターンしながら鶴見から身を離した。
「テーブルクロスもこうすれば白いドレスみたいですね」
うふふ、と江渡貝は鶴見の両手に手を伸ばした。
江渡貝の白く細い指はまるで壊れ物を扱うように、柔らかく慎重に鶴見の腕に触れた。
鶴見の腕を支点にし、片足を地面につけたまま、優雅に左足を背後に高く上げた。
天井を見上げるように、顔を上げれば、二人の目線が交差する。もう少し踊っていたい、と江渡貝は思った。
「ぼく、鶴見さんが来てから毎日が楽しくって」
仕事は少し煮詰まっていますけどね、と江渡貝は続けた。
「そうか」
「僕は」
江渡貝は次の言葉を躊躇した。
鶴見は言ってごらん? と江渡貝の言葉を促しながら、次のステップを踏む。
「鶴見さんにずっと一緒にいて欲しいな、って」
ちらり、と上目遣いに江渡貝は鶴見を見た。しかし、鶴見は次に踏み出す足の先を見据えていた。
「そうだな」
鶴見は部下や関わる人物から色々な形で慕われる事が多い。
鶴見は自分に想いを寄せている江渡貝の気持ちに薄々気づいていた。
「今言ったのは、冗談ですから……気にしないでください」
鶴見の表情と曖昧な返答に江渡貝は、目を伏せた。
伏目になると、前髪が顔に影を作るせいだろうか、江渡貝の表情が寂しげに見えた。
ずっと一緒にいて欲しい。そんな情熱的な殺し文句を言われれば頬が熱を持つ。
そもそも、江渡貝の気持ちを焚き付けたのは鶴見自身自覚していた。だが、不思議なことに気が付けばこの青年に惹かれているのは事実だ。
「あぁ……」
しかし、鶴見の行動範囲の中心は夕張ではない。追わねばならない金塊とそれを入手する鍵を見つけなければならない。そのため鶴見はいずれ夕張を去るつもりでいる。
「そうだ、江渡貝くん」
鶴見は一度言葉をとめた。いずれ小樽へ戻る身であることは、予定が決まってから言えばいいだろう。急用があれば小樽から電報が届くことになっている。
「いや……そろそろ夏がくるね」
鶴見と共に過ごし続けることは叶わぬ願いだと江渡貝は分かっていた。けれどもまだしばらく鶴見はここに居てくれるだろう。そんなことを考えながらそうですね、と江渡貝は寂し気な顔で頷いた。
しかし、この夜に鶴見は小樽へ帰ることになる。金塊に関する動きがあったとインカラマッから報告があったらしい。
部下を介して連絡を取るには少々危険な話題である。
江渡貝のことは気がかりだが、鶴見は小樽に戻るべく、馬車を手配することにした。

眠ってしまったかい。
江渡貝の意識の隅でそんな声が聞こえた気がした。
あと少し眠っていたい。薄目を開ければ、部屋を月明りが薄く照らしていた。江渡貝くん、と夢うつつに人の声が聞こえる。重く緩やかな声だ。鼓膜を震わせる声は現実だろうか。
起きようか、と思いながらも一日を終えた江渡貝の体は重い鉛のように夢の世界に沈み込もうとする。
日中に鶴見と踊っていたためだろう、普段痛まない手足の筋肉が張っている。
どこからともなく、人の気配が近づいて来ていた。床がぎしぎしと音を立てる。ほどなくしてベッドマットが軋んだ、誰かがベッドに座ったようだ。
誰だろうと薄っすら目を開けるが、月明かりだけの室内にはその人の顔は影っており誰が居るのか分からない。
後頭部に人の手の重みを感じた。その手は江渡貝の髪を梳かすように撫でていく。
それは江渡貝のよく知る重みだった。
鶴見が頭を撫でているのだろう、と江渡貝は思った。
鶴見さん、と呼んでみれば彼が返事をしたように感じた。
心地好いのだろう、江渡貝の口元が弧を描く。
鶴見に頭を撫でられながら、江渡貝の意識は夢の中へ落ちていった。

翌朝、目を覚ますと江渡貝の家に鶴見の姿はなかった。彼はどこかへ出かけているのだろうか。
鶴見は時折、作業用の工房へやってきては、江渡貝の様子を見に来るのだが、今日は鶴見が来る気配がない。彼自身が忙しければ、江渡貝に構うことなく自身の仕事で姿を消すこともしばしばある。
昼食の時間までにはきっと戻ってくるはずだ。それにしても、今日は蒸し暑い日だ。素麺でも茹でようか、と江渡貝は考えた
しかし、やはり鶴見さんに会いたいな。と江渡貝はため息をつく。というのも、朝から鞣した皮膚を上手く染められず作業が滞っていたからだ。
江渡貝はポケットに入れていた日記を見返して溜息を吐く。革の取扱いに関しては江渡貝の方が精通しているが、鶴見に話を聞いて欲しかったのだ。
この日の服装は指だらけの袖なしのシャツに、腿上の短いパンツ、乳首で出来たベルトをつけていた。着こなしのアクセントに腕輪と人の腕で作ったヘアバンドを巻いている。髑髏のついたハイヒールを履いて作業を続けている。
鶴見と江渡貝の持っていた本物の刺青人皮と江渡貝自身で染め直した試作品を並べてみるが、明らかに色が異なっている。
従来の方法では人の肌に刺青を入れたような黒は出ない。
生きた人間の肌と死人のそれとでは何もかもが違うのである。
「真皮に沈着した墨が真皮を透かして見えるこの色味……」
うまく染められぬ悔しさに手をわなわな震わせながら江渡貝は独り言を続けた。
「生きた人間の皮膚に入れるからこそ出る墨の色……」
そして江渡貝は悔しそうに机の上に置いてある試作品を両手で振り払うと泣き言を叫ぶ。
「くそうっ。出来ないッ。僕には出来ないようッ」
若き芸術家は苦悩の表情を浮かべ、革切り用のハサミや、染料の入った小瓶を倒した
「がんばれよ江渡貝くん。集中集中!」
江渡貝の奇行を見守ってきた第七師団の良心月島は、唸る珍獣をなだめるように、手を叩いて江渡貝に声援を送る。
「はぁ? じゃあ月島さんに刺青入れてひっぺがしましょうか?」
キッと振り向いた江渡貝は釣り目で月島を睨みつけた。
「鶴見さんはどうしていないの? 鶴見さんに会いたいッ」
食いかかるように鶴見の所在を聞いてくる江渡貝に月島は冷静に言った。
「鶴見中尉は小樽に戻られた」
江渡貝は目を見張り、染色のサンプルに使っていた豚の皮を取り落とした。
そして悲しげな顔で、うそでしょう、と呟くと、シロクマの剥製に飛び乗り泣き始めた。
「僕は鶴見さんのいうことしか聞きませんからッ。鶴見さんを……よん、でき、てッ、うわあああん」

鶴見から偽物人皮の作製を引き受けたものの作業の進まない日々に江渡貝は不満を募らせていた。
もっともここ数日は鶴見によしよしと宥められながら少しずつ仕事をしていたようなのだが、彼の不在を知って不満が爆発したらしい。
月島は「しょうがないだろ」と小声で呟いた。本人は口に出していないものの、背景に面倒くさいという文字が透けてみえる。
月島は元々世話焼きの性格なのだろう。大きなため息を吐き、後頭部をがりがり掻くと、半紙に文字を書きつけて江渡貝に渡した。
「そんなに鶴見中尉と連絡を取りたいのなら、ここに連絡すればいい」
お世辞にも綺麗な文字とは言えないが、そこには月島の文字で小樽の住所と電話番号が記されていた。
「鶴見さんに会いたい……」
「そういう事は本人に言いなさい」
江渡貝は半紙を愛おしげに眺め、大事なものだと言わんばかりにその紙を両手に抱きしめた。
もう少し、もう少し頑張ったら鶴見さんに手紙を出すんだ。瞳に星を浮かべた江渡貝の睫毛はまだ涙で濡れているが、涙は止まったらしい。
「なめし方、染め方、死人の皮膚……」
江渡貝はうんうん唸りながら作業へ戻っていくのだった。

鶴見が小樽に帰ってしまってから早一週間。
江渡貝は想い人に会えぬ寂しさと、上手く進めることができない作業に悩んでいた。
北海道は奈良の夏と比べると幾分か湿度も気温も緩やかで過ごしやすい。
しかし、煮詰まった仕事を抱える江渡貝はじめじめムシムシと机の上に突っ伏したまま、鶴見に似せた剥製を胸元に抱え、その頭を撫で続けていた。
この仕事が終わったら鶴見さんに手紙を出すんだ、と意気込んではいたものの、江渡貝の作業は滞っていた。
職人らしい精密さと芸術家らしい美しさへの追及を怠らない性格だが、一方で情緒不安定な面もあるらしく、感情の起伏が激しい人間でもある。
「あぁぁ、鶴見さんに会いたい……」
「このあいだ見た藤の花、紫陽花。綺麗だったなぁ」
紫陽花、という言葉で江渡貝は鶴見と交わした会話を思い出し、うっとりした表情で偽鶴見の頭に自分の顎を乗せ、遠い目をしていた。
『でも使い込めば使い込むほど、艶が出てきて肌に馴染んでいくんです』
『だから大切にしてくださいね』
そうだ、あの手袋のことを話したんだっけな。鶴見さんは手袋を使ってくれているだろうか。
ちゃんと濡れないように使ってくれているといいな、あの手袋は濡らすと黒く変色してしまうから。と江渡貝は目を瞑ったまま考える。
『黒く変色してしまう。』
江渡貝は頭の中で過去の自分の言葉を繰り返した。大きく目を見開くと、江渡貝はその場で飛び上がった。
「そうだ、鉄だ!」
江渡貝は自作の人皮の手袋をひったくるように手に持つと、手袋を水に濡らした。そして、興奮に手を震わせたまま、手袋をしていた手で鉄製の急須に触れる。
恐る恐る手をひっくり返せば、手袋の内側は黒く鉄器の水玉模様に変色していた。
「これだ」
はぁはぁと息を荒げ、江渡貝はしばらくの間、黒変した手袋を眺めていた。その変色した手袋を刺青人皮に近づけて比べ、江渡貝は目を潤ませる。
「これなら、本物と見分けがつかないはずだッ」
江渡貝は皮の欠片を持ち、興奮に手を震わせた。
やったー、と江渡貝は叫び、机の上にいくつも重なっていた失敗作の破片を天井に向けて放り投げた。
祝福の花吹雪のように肌色の皮のかけらは宙を舞う。
そう、死んだ真皮を黒く染める方法は、元より江渡貝が好んでいた皮の加工方法。
キブシの実を使ったタンニン鞣しに鍵は隠されていたのだ。江渡貝の作った剥製たちは元々タンニン鞣しの工程を経て作成されている。そのため、囚人たちの刺青と同様に黒く色付けさせるためには、皮を濡らし金属で変色させれば良かったのである。
「これなら鶴見さんも喜んでくれるはずだ。きっとよしよししてくれる!」
江渡貝は自作の鶴見そっくりの剥製を抱き寄せ、夢見るように言った。
「よし……」
江渡貝は興奮に目を赤くしたまま作業台に向かった。
いくつもの人の指を繋げて作ったマスクを被ると腕まくりをした。ふん、と気合を入れるとマスクから気合の入った鼻息が噴き出る。
江渡貝は思い浮かんだものを手記に書き記し、それをポケットに戻す。そして服の袖を捲りエプロンの紐を結び直した。

炭鉱の煙が二股に分かれていると炭鉱で誰かが死ぬ。
夕張の炭鉱街には炭鉱事故にまつわる噂話が幾つもあった。今日の煙は二股に分かれていたのだろうか。江渡貝は煙と粉塵の充満する狭い坑道の中で噂話を思い出していた。
下半身に感じる痛みで意識が朦朧とする中、月島に託した偽物人皮と本物の刺青人皮と鶴見のことを考えていた。
月島はうまくこの場から脱出し、鶴見に偽物人皮を渡せるだろうか。不安ながらも江渡貝は自身の最期を予感し、本物の刺青人皮と偽物を区別する為の暗号を月島に伝えていた。
江渡貝が作成した偽物人皮はキブシの成分で皮を鞣すことで柔軟性を持たせている。また、タンニンという成分は水に濡らすことで皮の表面に滲み出て、鉄に触れると刺青を入れた皮膚のように黒く変色する。
江渡貝はそのタンニンの性質を利用し、偽物人皮を完成させていたのだ。
江渡貝が月島を介して最後に鶴見に伝えたい言葉。それは偽物と本物の判別方法「鉄」という一言だった。
偽物人皮は水分を含ませたうえで、鉄に触れさせれば黒く変色し、本物との判別がつくようになっている。
鶴見は紫陽花を眺めた雨の日を思い出してくれるだろうか。賢い人だ。きっと鉄という言葉だけで分かってくれるだろう。
家に押しかけてきた男、尾形百之助は「鶴見中尉は死神だ」と評していたが、江渡貝はそうは思わない。
今の江渡貝の目の前は暗く、光はない。
一寸先は闇、という言葉がある。
闇の中を生きてきたような人生だったが、最後に光を照らしてくれたのは鶴見だった。光を知り影があることを知った。
ようやく光に気付いたところで人生の終わりが見えてしまったのは残念だ、と江渡貝は暗闇の中で思う。
目を閉じても開いても同じような長く黒い闇が続いていた。このまま目を閉じたら死ぬのだろうか。
まだそんなに生きていないな。鶴見さんに会いたかった。はたして自分は鶴見の役に立てただろうか。どうかそうであって欲しい。
鶴見との出会いを思い出す。夕張の一軒家で花見をした春先のことがどこか遠い昔のように思えた。
闇の中に飲み込まれる感覚に陥るが、怖いものはなかった。江渡貝は暗闇に身をゆだね、体の力を抜いた。

息苦しい。手足が痛い。背中が痛い。しかし、目の前に光が見える。瞼に光が透けて見えた。
この先には天国でもあるのだろうか。闇夜の終わりに江渡貝は手を伸ばした。
「あぁ」
江渡貝が目を開くと、見知らぬ天井が見えた。
「生きている」
江渡貝の掠れた声が空気を揺らした。
埃と炭の焼ける臭いはしない。ここはどこなのだろう。
意識がはっきりしてくると、次第に体のあちらこちらが痛み始めた。
違和感に手の先を見れば、腕には太い点滴の針が刺さっており、手首は包帯で被われていた。どうやら病院にいるようだ、と江渡貝は自身の居場所を把握する。
江渡貝は目線だけを動かして横を見れば生成り色のカーテンが見えた。人影もある。喉の痛みと渇きを感じながらも声を絞り出す。
「あの……」
江渡貝自身も驚くほどしゃがれた声が出た。すると、窓際の方からだろうか。人が向かってくる足音がした。
「あ、気が付きましたか」
恐らく医師なのだろう。白衣を着た短髪の男が江渡貝を覗き込んだ。
「あ……ぼくは」
「君は、夕張炭鉱の事故から生き残ったんだ。名前は言えるかい?」
「江……」
江渡貝弥作、と言いかけたところで江渡貝は口を噤んだ。刺青人皮を狙う人物数名に鉱山で追いかけられたことを鑑みると、下手に名を明かさないほうが良いと判断したからだ。
屋号(やごう)に名を掲げていた、ということもあるが、金塊に関わる人物に自分の名と顔は知られてしまっている。
下手に自分の情報を話すのは危険だ。
身元不明の記憶障害を演じながら鶴見に無事を連絡する手立てを探した方が賢明だろう。
江渡貝は一見、ただのお人好しで良い青年だと思われがちだが、瞬時に自身の身の振り方を考える能力に長けている。
わざとらしく江渡貝は眉を寄せ、うぅと唸ってみせた。
「僕は……名前は……覚えていません」
すると医師の隣にいた、長髪を後ろで束ねた看護師は同情するように眉尻を下げた。
「あぁ、でも気に掛けないでくださいね。事故のあとに記憶が混乱してしまうことは良くあることですから」
小太りの若い看護師はそう言うと大丈夫よ、と言った。
「あの……僕の足は」
鶴見、そして月島の安否が気になっているが、ここで彼らの名前を尋ねたところでこの医師たちは陸軍の軍人のことまでは知らないだろう。
もしも、この医師が鶴見の名を知っている人物であれば、立場によっては江渡貝自身の身に危険が及ぶ可能性もある。
江渡貝が考えを巡らせている間に医者はカルテを捲り眉根をひそめ「少々手足を痛めている」とだけ言った。
はぁ、と気のない返事をする江渡貝に目もくれずに医師はカルテに文字を走らせながら眼鏡の位置を直した。
「まぁ……君は若いからすぐに傷は塞がるだろう。しばらくの安静は必要だが」
医師は江渡貝の手首に手を当てた。
時計を見ながら脈を測っているようだ。数秒で脈拍を測定すると、瞼を捲り、問題なさそうだねとだけ言い、他の患者の方へ行ってしまった。
「あの、すみません」
江渡貝は傍らにいた看護婦を呼び止めた。長いこと眠っていたせいで喉が渇いていた。その旨を伝えると、彼女は丸い頬を上げて、にこりと微笑んだ。
江渡貝は柔らかな腕に支えられながら上体を起こし、促されるままに白湯を飲んだ。
白湯を飲みながら看護師は江渡貝が運ばれてきた時の病院の様子をぽつりぽつりと話し始めた。
少なくとも事故から丸一日以上は経っていたようだ。
この病院には炭鉱の作業員が運ばれてきており、他の人間は来ていないらしい。眠り続けて凝り固まった江渡貝の背を撫でながら看護師は続けた。ふくよかで柔らかな手だ。
「ありがとうございます」
聞いてもいないが江渡貝が気になっていることを彼女は教えてくれた。なぜだろう、と前山を思い出させるつぶらな瞳を眺めれば、その目はきゅと笑った。
「わかるのよ、何年も看護師をやっていると」
「わかる……?」
「誰かを探している。気がかりなことでもあるんでしょう」
神経質そうな医師が隣にいないからだろう。先ほどと比べるといくぶん親しげな口調で彼女は続けた。
「ここの近くに手紙を出せる場所があるわ。院内の出入りは言ってくれれば外出を許可できますから」
まぁ、まだ安静が必要ですけどね、と彼女はにこりと笑顔を向けた。
たしかに、しばらくの間は歩行も、手先を使った作業も難しい状況でもあるようだ。どうやら利き手の右手は腫れてしまっているらしい。指はほとんど曲がらなかった。
そうなるとしばらくの間は剥製作りの仕事も難しいだろう。今までの蓄えがあるぶん、生活には困らないはずだ。
動けるようになれば家に帰りいつもの生活を取り戻せばいいのだ。しかし元の生活に戻ることは二度とないだろうな、と江渡貝は考える。
もし、江渡貝の家に侵入してきた人物が炭鉱から生き延びていたとすれば、江渡貝の存在を追ってくることは間違いないだろう。
あの工房を見られていたとすれば、偽物の出所として江渡貝の存在を探している可能性も高い。
自宅だって荒らされているかもしれない。鶴見の話していたアイヌの金塊を追う人間が各地に存在するのだとすれば、それに関わってしまった江渡貝がもとの日常を取り戻すことは難しいだろう。
鶴見と関わった時点で日常が非日常へ変わってしまったのは自覚していた。しかし、江渡貝を見つけ出し、新たに生きる意味と愛情を与えてくれたのも鶴見だ。
何が起こるかわからない人生でも良いかもしれない。
江渡貝は一口水を飲んだ。
乾いた喉に生ぬるい水がじんわり滲みる。水を飲み落ち着いたところで、江渡貝は周りから生活音が聞こえることに気が付いた。
どうやら江渡貝の他にも入院患者はいるらしい。よく考えれば大きな炭鉱で事故があったのだ。
恐らく周囲の傷病人も同じようにここの病院へ運ばれてきたのだろう。時折聞こえてくる呻き声やすすり泣く声に江渡貝の表情が曇る。あぁ、ここが今の自分のいる日常なのか、と手元の茶碗を見た。
手元の茶碗を見ながら、江渡貝は月島の事を思い浮かべていた。もしかしたら、江渡貝同様に夕張周辺の施設に彼も運ばれているのではないだろうか。
偽物人皮と暗号はしかるべき暗号解読者の手に渡る事で、ようやく意味を成す。出来ることなら今すぐ退院し、月島へ手渡した作品の行方を知りたい。
作品は無事に鶴見のもとへ行きついたのだろうか。何度も繰り返す不安と焦燥感に江渡貝はため息を吐いた。
病院の出入りは自由よ、という看護師の言葉を思い出す、
どうやらこの病院の入院施設に関しては、外出は可能らしい。
もう少し手足の具合が良くなれば、手紙を出す程度の外出なら可能だろう。もう少し足の調子が回復し一人で出歩けるようになれば、の話だが。
看護師の言葉を思い出し、江渡貝は辺りの環境を見渡した。ベッド脇のテーブルには当日着ていたニットやズボンが丁寧に折りたたまれていた。煤だらけになっているが、着ることはできそうだ。
煤だらけのズボンを広げれば、ポケットの中にはいつも持ち歩いている日記が入れっぱなしになっていた。
幸いにもテーブルには誰かの忘れ物なのだろう。一本、鉛筆があった。手紙には日記を使えばいいだろう。封筒と切手は外で入手すれば良い。
それに、小樽の第七師団の場所については月島がメモを残してくれていた紙があったはずだ。手記を捲ればそこに挟みんでいた月島から貰った紙が挟まっていた。
小樽の第七師団兵舎。そこにあてた手紙を書けば状況は変わるはずだ。
まずは自身の無事を知らせるべく江渡貝は鉛筆を手に取ると、怪我で覚束ない手つきで手記を束ねていた紐を解き、真っ白なページを開いた。
江渡貝は両手を怪我していた。左手はいくつも擦り傷ができ、かさぶたがあちらこちらにあった。
一方で聞き手の右手は分厚い包帯で固定されており鉛筆を持つことさえもままならなかった。痛みを堪えて上半身を持ち上げる。膝の上に日記を置き、鉛筆を握った。
だが、利き手で鉛筆を持ってみたものの怪我のせいだろうか、力が入らず文字が歪んでしまった。
本当は伝えるべきことは書ききれないほどあるが、怪我をした手ではうまく文字が書き進まない
「う……」
包帯を巻いているからだろう。手の力加減が付かずにまっさらなページ一面に斜めの一本の鉛筆の線だけが残った。
あなたを愛する人間はいない。
新しいページに一本書かれた傷のような線を見て江渡貝は母の声を思い出していた。打った頭の傷が痛む。江渡貝は左手でこめかみを押さえた。
手紙で無事を知らせたところで負傷した人間が鶴見のもとにいても何の役にも立たないだろう。
そもそも鶴見が認めてくれたのは江渡貝自身ではなく、職人としての才能である。
職人として何もできず、人からの介助なしに歩くこともできないのならば、無事を知らせ鶴見たちに会ったところでただの足手まといになってしまう。
江渡貝は頭に浮かぶ考えを振り払うものの、何度も呪いのように頭の中に蘇るその声は、江渡貝に幼少の頃から擦り込まれた他人と関わることに対する罪悪感を思い出させた。
まるであの家にいた時のようだ。何人もの人間が頭の中で喧嘩をしている。周囲から聞こえる呻き声も相まって江渡貝は混乱した。これは幻聴だと声を振り払うが、一度、声が聞こえ始めると止まらなかった。
江渡貝はがっくりと肩を落としてうなだれた。紙に書き殴ったような黒い線をじっと睨みつけて眉根を下げた。
彼のように目的をもって生きる人にはこんな人間は不要だ。
けれども、このまま何もなくなってしまうのは嫌だった。せめて別れの言葉だけでも伝えたいと江渡貝は思った。
後ろ向きな自分自身を叱咤しながら、江渡貝は再び日記を開いた。もう一度鉛筆を握る。
先ほど線を引いただけのページを開けば、膝の上へ見覚えのあるオレンジ色の薄紙のようなものがはらりと落ちた。

以下成人向け描写サンプル

耳の裏側を擦られると背筋がぞくぞくした。気持ちいいようなくすぐったいような感覚に江渡貝は思わず声を漏らした。
「くすぐったい……です」
「くすぐったい?」
鶴見は含みを持った笑みのまま、江渡貝の手首を掴むとそこに口付けた。手の甲に触れて、鶴見はチラリと江渡貝の目を見る。色付いた視線に江渡貝の脈が乱れた。
鶴見は江渡貝の輪郭をなぞり、人差し指で顎をくい、と上げた。夏に初めて接吻をした時と同じように江渡貝の唇をなぞり、ゆっくり、歯がぶつからぬよう顔を近づけていった。
触れるだけの口付けをして顔を一旦離す。硬く結ばれた唇に鶴見は不満げな顔をする。余裕のない江渡貝は鶴見の言いたい事には気付いていないらしい。
しょうがないな、と鶴見は江渡貝の下唇を人差し指で突きながら言った。
「少し口を開けてごらんよ」
江渡貝は小鳥が親鳥の給餌を待つように大きく口を開けて「あー」と気の抜けた声を出した。
「いや、やはり閉じていい」
鶴見は江渡貝の顎をとんとん叩き、自身のこめかみを押さえた。
「力を抜いていなさい」
鶴見はそう言いながら江渡貝の顎を掴み、唇に触れた。
触れるだけの口付けから、江渡貝の下唇を挟むように口で食んだ。江渡貝の両手は宙に浮いたまま手持ち無沙汰になっている。
鶴見は江渡貝の肩に手を移動させ、顔を傾けた。僅かに緩んだ唇を塞ぎ、江渡貝の唇を舐めていく。
口が塞がっているからなのか、それとも興奮故だろうか。江渡貝は目に涙を浮かべて小さく声を上げた。
「鶴見さん、待って」
江渡貝の制止も聞かず、ぬるり、と鶴見の舌が江渡貝の口の中を舐め回していく。
肩を撫でる柔らかな刺激に、江渡貝は背筋を震わせた。
ふ……と鼻から声が抜ける。羞恥心故に、始めは緊張して抵抗していた江渡貝であったが、いまや抵抗する気力は抜けていた。一方で、背に回した手はしっかり鶴見のシャツを掴んでいた。
大きく視点が回り、気が付けば江渡貝の上に鶴見が覆いかぶさっていた。とろりとした目が見つめ合う。
「江渡貝くん」
鶴見は何度も江渡貝の口の中を舐めまわした。口の中で混ざり合った唾液が江渡貝の口の端から溢れ顎を伝う。
濡れた音が羞恥心を煽る。
息が上がる。気がつけば鶴見の手は江渡貝の体を弄っていた。浴衣の上から肋骨を撫でていた手は、袂(たもと)から江渡貝の胸元へ侵入し胸の先に辿り着いた。
そして鶴見の指先は、江渡貝の胸の赤い小さな突起を転がした。鶴見の指の下で胸の先端ががつんと硬くなる。親指と人差し指が尖った部分を軽く摘まめば、江渡貝の喉が切なげに啼いた。
「んぅ……」
びくっと肩を震わせて左手で足の間を隠すように押さえた。
触れられて欲情した江渡貝自身はわずかではあるが浴衣の中央を押し上げていた。
去勢されているそこは中途半端ではあるものの多少の機能は残っているらしい。それに気付いているのか、いないのか。鶴見はもう一度江渡貝の唇を塞いだ。
知られたくない。江渡貝は腹の奥の疼きを誤魔化すように両足を擦り合わせた。足の間のものがじっと熱を持っている。
はだけた浴衣の中に鶴見の手が入り込んでいった。
僅かに欲情の兆しを見せる股間を隠すように江渡貝は両足を閉じるが、足を開こうと鶴見は江渡貝の膝に手をかける。
「鶴見さん、見ないで……ください」
江渡貝は背を丸めて身体を隠した。
「僕のからだ、変なんです」
江渡貝は鶴見に発情した身体を見られることが恥ずかしかった。それに加え去勢された醜い身体を見られたくなかった。
「ふふ、そうかい」
鶴見は江渡貝の肩に触れ、鎖骨に口付けた。こつん、と肩に堅いものがあたる。冷んやりしたそれは鶴見の額当てだ。
「おっと失礼」
そう言うと、鶴見は額当てをはずした。
仮面に隠されていた赤い剥き出しの皮膚が露わになった。江渡貝が鶴見の額を見るのは初めてのことだった。
鶴見自身から事情は聞いていたものの、まだ創傷の痕の残る額に江渡貝は目を丸くした。
江渡貝は額に触れてみたいと手を伸ばすが、鶴見と目が合い、躊躇した手を胸の前で丸めた。
「私のここも、変わっているだろ?」
触れてみるかい、と鶴見は自身の額を指さした。気持ちを見透かされているようで気まずいと思ったが江渡貝は言われるままに鶴見の額に人差し指で触れた。
ざらついた表皮をなぞる。少し濡れた赤い皮膚の周りが痛々しい。お世辞にも美しいとは言えない傷跡のはずだ。
しかし、江渡貝は赤い額にすら愛おしいと感じていた。鶴見の顔を胸板に引き寄せると、唇で額へ触れた。
「はぁ、はぁ……」
江渡貝は鶴見の額に口付けをしながら、切なく疼く身体を誤魔化すように両足をもじもじさせていた。
欲情に濡れた表情で額を舐める姿に鶴見は思わず唾を飲み込んだ。そして、もどかしそうな江渡貝の両足の間のものへ手を伸ばした。鶴見の手は江渡貝の薄くまばらな茂みを撫で、欲情のしるしを包み込む。
「あっ……」
ぴくっと江渡貝は甘い声を漏らし、腰を揺らした。肌着を押し上げているそこを撫でれば江渡貝は何度も小さく喉を鳴らした。
「や……だめです」
ダメだ、という言葉とは裏腹に江渡貝は鶴見の手に足の間のものを押し付けていた。
「見せてごらん」
鶴見の甘く毒を含んだ言葉が江渡貝の理性を溶かしていった

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