鶴江 現パロ 待ってて、鶴見先生! 3

現パロ 鶴江
続きものです→待ってて、鶴見先生!1話2話
高校生江渡貝くんと鶴見先生の話。そのうち本にしたい。
ふわっとタイムパラドックス系だと思います、たぶん。

時刻は午後十四時。江渡貝のクラスでは鶴見が生物の授業を進めていた。黒板には遺伝子の構造だとか、発見者の名前が書いてある。
「今日は八九ページまでかな。さて……」
鶴見は黒板の前で生物の教科書を教壇の上に置き、今日の雑談に入ろうとしていた。
教科書を閉じ、一息ついたところから鶴見の雑談は始まる。
江渡貝はこの瞬間が好きだった。放課後に弾いている鶴見のピアノもこんな風に始まる。この瞬間が好きだった。
「人間には好奇心や感情がある。だから、こうして学校に通って勉強をしたり、何かを知ろうと書物を読む」
雑談といっても鶴見のそれは生物や勉強に関する雑学が多い。
鶴見は黒板に猫と鳥の絵を描いていた。
「そうそう、動物にも好奇心や感情があるのか。それは肯定も否定も難しい問題だ。けれども猫がねこじゃらしにじゃれることも、渡り鳥が知らぬ土地で回りの環境を確かめるような探索行動も好奇心の一種と言える」
鶴見は一息にそこまで言うと、生徒たちのほうに振り返り教室を見渡した。
鶴見を見ていた江渡貝は不意に鶴見と目が合ってしまった。江渡貝は慌てて机の上のノートに目線を落として、動揺を隠すようにペンを握った。
江渡貝は鶴見の背中を眺めていた。すっきりと伸びた背筋、いつも整えられている髪型。年齢の割にはきゅっと引き締まった体形をしており、綺麗な人だと見惚れてしまう。長い睫毛も、黒い瞳も惹き込まれる。
一方で鶴見は江渡貝の動揺など露知らず。ツンと澄ました表情で雑談を続けていた。
「そうそう、次の授業は遺伝子、なんて直接目に見えるものではないから好奇心を持ちにくいかもしれないが、今では遺伝子情報があれば、美肌や将来の毛髪状況すらわかる時代だ。ともに、勉強していこう」
授業は終わりだ、という鶴見の合図に合わせ、今日の日直が「規律、礼」と声をかけた。

放課後、江渡貝はまっすぐ旧校舎へ向かっていた。その足取りは軽い。相変わらず旧校舎の中は、そこだけ時間が止まってしまったように静かで、古びた建物のにおいがする。
いつもの空き教室へ立ち寄ると、今日も変わらず机の上には例の本が置いてある。
「らっこ」の続きには「こあら」と付け足されている。
「あなたも三年生なんですね。私はここの三組だ。そういえば、今日は雪がひどかった。卒業式は暖かいといいけど」
同じクラスなのか。江渡貝はクラスメイトの顔を思い出しながら、文字を追う。
しかし、ここの三組と書いてあるが、ここは旧校舎だ。それに、雪なんてここ数日間降っていない。
江渡貝は、何気なく教室の中を見渡した。そういえばここの空き教室は何組なのだろうか。
教室から廊下に出て教室の表札を確認するとそこには三年三組と記載がされていた。
偶然だろうか。わざわざこちらの教室に来て、でたらめな天気を書くだろうか。
江渡貝は拭い去れない違和感に首を傾げながら、メモ紙に返事を書き込んだ。
「らくだ」
「同じクラスだったのですね。そういえば、雪なんて降っていましたっけ。」
きっと夜中にでも雪が降ったのだろう。そう思えば納得できた。江渡貝はメモを本に挟み込み、耳を澄ませた。
時刻は十六時。
それならば、あと少しで鶴見のピアノが聴こえてくるはずだ。
江渡貝は音楽室の方を向いた。
この教室の並びには音楽室があるからだ。
ピアノの音はまだ聴こえてこない。
江渡貝は教室のすみへ行き、何気なく古い黒板の前に立った。すると、ピアノの音が聴こえてきた。
ポーン、と一度だけ。眠っていたピアノを起こすような音がした。
その一音はピアノの調律を試しているという音ではないだろう。もし調律が狂っていたとしても、鶴見なら気にせずに続きを奏で始めるような気がした。何音か試すような音が鳴る。音の連なりも何も気にしていないような音だ。
一度深呼吸するような一間を置いて、やがて音楽が始まった。鶴見の演奏だ。
江渡貝は鞄を持つと教室を出た。廊下を歩いて行き、音楽室の扉の前に立つ。
そして、確かめるように扉に手のひらを置いた。江渡貝は一呼吸整えると扉を開いた。
そっと顔をのぞかせれば、鶴見はピアノの音に耳を傾けるようにしてピアノを弾いていた。
閉じていた目が開き、黒目が一度江渡貝の姿を捉えた。初めて音楽室で鶴見と出会ったときと同じように、あと数小節待ってくれる? 鶴見はそう言いたげな顔をしていた。
江渡貝は演奏の邪魔をしないよう、静かにピアノに歩み寄った。昨日鶴見が用意した特等席に付くと、じっと鶴見の手の動きを目で追った。
キリのいいところまで弾くと鶴見は演奏の手を止めた。
「そうだ、今日は一緒に弾いてみるかい」
鶴見の申し出に江渡貝は狼狽えた。楽器に関しては専ら聴く側だからである。
せいぜい、音楽の授業でアルトリコーダーを鳴らした程度で、音楽のセンスはまったくない。
はじめてこの音楽室で声をかけた際に、ピアノを聴きたいと申し出たため、音楽の心得があると勘違いしているのだろう。
「いえ……自分はピアノ弾いたことがないので」
「じゃあ一緒に弾いてみる? 私が合図するから、その鍵盤を押してごらん」
ドレミファソラシド、と鶴見は白い鍵盤を指差した。
「椅子ごと隣においで」
江渡貝は椅子を持ち上げ、鶴見の隣に椅子を置いた。
隣に座ると、思いのほか鶴見との距離が近かった。緊張に掌が汗ばんでくる。
「鍵盤に手を置いて、こんな風に」
鶴見は江渡貝の隣で丸めた手を鍵盤の上に置いて見せた。
弾いてごらんと、促されるままに江渡貝は鍵盤に手を置いた。
一瞬の躊躇いの後に、江渡貝は一音、音を鳴らした。鶴見のように、音を確かめるためではない。
どんな楽器なのだろう。好奇心のままに白い象牙の鍵盤を押した。
演奏する鶴見の指先は軽やかに見えていたが、鍵盤は江渡貝が想像するよりもずっと固く、押すのには力が必要だった。
頼りない、もやっとした音が響く。
もう一度鍵盤を押した。どこか、恥じらいを残したような遠慮がちなこもった音が出た。
初めて弾くのだから下手なのはお互いに承知である。しかし、江渡貝は恥ずかしかった。
美しい音を奏でる人の前で、初めて音を出すのである。
「弾きます」と言うと江渡貝は鍵盤に両手を置いた。といっても江渡貝が弾くのはせいぜい鍵盤ひとつずつだ。
「最初はドに指を置いて」
「はい」
「始めるよ……ド」
鶴見に言われるままに、白の鍵盤を指で押す。
「ミ」
江渡貝の中で譜面の中の記号は、鶴見の隣で音楽に変わっていた。
「まだ緊張している」
そう笑うと鶴見は江渡貝の隣で鍵盤を弾いた。江渡貝の鳴らす音に鶴見のメロディが寄り添った。江渡貝の手よりも少し大きな手が鍵盤を弾いていく。鶴見の指先から生まれる音楽の隙間に江渡貝が音を足す。
長い指先が白黒の上を慣れた手つきで動き回った。一方、江渡貝は慣れない手つきで指を動かしている。
丸い手の形は忘れずに、指先の力は強すぎないように。もっと柔らかく動かすこと、楽しむことと鶴見は言った。
「どう?」
「難しいけど……楽しいです」
「きっと、もっと時間があれば、連弾できるようになったかもしれないな」
「そんなすぐ上手くなりませんって」
江渡貝は照れたように答えた。小指が一瞬触れ合い、江渡貝の手が緊張にきゅと固くなる。
「そうかなぁ。でも、もう少し一緒にいたかったなぁ」
「それは……」
どういう意味ですか。江渡貝はそう言いかけて言葉を飲み込んだ。理由は分からないが、胸がいっぱいになって言葉が出てこなかったからだ。
「江渡貝くんは、もうすぐ大学生か」
すぐそばで鶴見はからかうような眼を江渡貝に向けていた。
「せ、先生」
江渡貝は赤く染まった頬の熱を冷ましながら、窓の外に目を向けた。日が落ち始め、空は濃い青に変わってきている。
「あぁ、そろそろ夕方の鐘が鳴る。今日は鞄もこちらにあることだし、一緒に帰ろうか?」
鶴見はピアノの鍵盤にカバーをかけ、蓋を閉めた。立ち上がるとピアノの脇にある鞄を持つ。江渡貝も肩に鞄を掛けると鶴見の隣を歩いた。隣を歩き、江渡貝は鶴見と同じくらいの身長だと気付いた。何故だか心臓の裏側がくすぐったい。
校門を出たところで夕刻の鐘が鳴り始めた。旧校舎の音楽室で聴くよりも、音は遠い。
水分を含んだ冬の終わりの風が木の葉を揺らしている。夕刻の空がだんだんと藍色に変わっていた。
ツンと薫るのは道端に植えられた草花の香りだろう。歩き慣れたコンクリートの道がいつもより瑞々しく見えた。
季節は春と冬の間。そして今は夕方、昼と夜が入れ替わる時間だ。卒業式を間近にして感傷的な気持ちになっているからだろう。今の時間が、この景色がかけがえのないもののように見えた。
「あぁ、梅の花だ」
梅の花が咲き始めたのは二月からだろうか。江渡貝は薄闇の中、ぼんやり空を見上げている梅に目を遣った。細く艶々した梅の枝には白い柔らかな花がまだいくつか残っている。
「いつの間にか春が来ているんだね」
春だ。
「そういえば、もうすぐ卒業式です」
春になれば江渡貝は高校を卒業し、次の月には大学生になっている。永遠の別れではない、けれども生徒と教師という縁が解消されれば、江渡貝と鶴見が会うことはほとんどなくなるだろう。
「うん、また生徒達を送り出す季節が来た。寂しくなるなぁ」
鶴見は静かに呟いた。教師という性質上、卒業式に何度も立ち会っているはずだ。何度も繰り返しているうちに、寂しいなぁと思う気持ちは浮かんだとしても気持ちの切り替えは早くなり、来春補充される生徒達で、再び鶴見の胸の隙間も補充されるのではないだろうか。
「先生なら何度も卒業式に出ているし、卒業式の寂しさなんて慣れちゃうんじゃないですか」
江渡貝は過去に送り出された生徒たちや、来春入学する生徒たちのことを考えながら、吐き出すように言った。嫉妬に近い感情だ。言った言葉は取消せない。後悔に気を重くしながら言い訳を考える。
「そうだね」
江渡貝が次の言葉を思案している間に鶴見はそう答えた。怒られるかもしれない。そう思っていたが、思いのほかあっさりした返事だった。
「江渡貝くんのことも忘れちゃうかもしれないなぁ」
ふふ、と笑う鶴見に江渡貝は目を丸くした。
きっとこの冗談は鶴見の思い遣りだ。小さな嫉妬心から生まれた憎まれ口も理解した上での言葉なのだろう。
「ひどいですっ!」
江渡貝はぺちっと鶴見の肩を叩いた。
「冗談だよ。可愛い生徒で可愛い後輩のことを忘れるもんか」
「え?」
江渡貝は後輩ですか、と聞き返した。鶴見は大げさに頷いた。
「私はここの卒業生なんだよ」
「じゃあ、僕の先輩ってことですか?」
鶴見がここの卒業生なんて初めて知る情報だった。
「うん、二十年ほど先輩だ」
「なんか、不思議な感じします。先生も高校生だったなんて」
もし二十年前に生まれていたら鶴見と同級生だったかもしれないのか。
「それじゃあ先生もこの制服着てたんですか?」
「質問ばっかりだねぇ」
「探索行動、です」
「どちらかと言うと好奇心、じゃないかね。私の頃は学ランだったよ。それに髪型は坊主だったし」
「学ランだったんですか」
少し長めの黒髪を後ろに流し、髭を蓄えている今の姿から、坊主頭は想像し難かった。
「あぁ、それから学校帰りの買い食いが好きだったなぁ」
「買い食い?」
「そうだよ、ほら焼き芋屋さんがやってくる」
鶴見の指さした先には焼き芋屋の屋台が見えた。
春も近いこの時期に開店しているのは、少々珍しい。
薄暗い夜の街に、赤い提灯を下げた屋台。石焼き芋、やきいもと焼き芋屋の呼び声の録音を流しながら、芋の屋台は低速で鶴見たちの方向へ向かっているところだった。擦れ違えばふわりと甘い焼き芋のにおいがした。じっくり焼いたねっとりした金色の芋の味を思い出して思わず唾を飲み込んだ。
「一つ買ってみようか。江渡貝くんも食べる?」
「えっ、そんなぁ。お夕飯前なのでダメですよぉ!」
これから夕食の時間だ。一人暮らしのため、食事の調整はできる。
ダメだと言いながらも、江渡貝はちらちらと焼き芋屋を目で追っていた。
「甘くて美味しそうな匂いがするなぁ……どうだい、江渡貝くん?」
甘いサツマイモの匂いに誘われて、ついにぐうぅと江渡貝の腹の虫が鳴った。
「あっ……、ううっ、焼き芋美味しそうです……食べたいです」
「身体は正直だね」
鶴見は江渡貝の肩に手を置いて、江渡貝くぅんと笑った。そして、鞄から財布を取り出し、小走りで屋台に駆け寄ると焼き芋屋の男に声をかけた。
「ひとつお願いします」
「400円です」
男は軍手をはめ直すと、手のひらに収まる程の大きさの焼き芋を取り出した。ふわり、と焼き芋の皮の香ばしい甘い香りがした。鶴見は芋の入った茶色い紙袋を受け取った。再び歩き出すと鶴見は紙袋を覗いた。
美味しそうだね、と江渡貝に紙袋をのぞかせる。紙袋の匂いと出来立ての焼き芋の湯気がかおった。中には紫の細長い焼き芋がひとつ入っていた。
鶴見は焼き芋を取り出した。甘い香りが辺りに広がる。細長いそれを半分に割ると、更に甘い香りが強くなる。鶴見は芋の入っていた紙袋を破り、芋の本体に巻きつけた。そして、おおよそ半分になった芋の半分を江渡貝に差し出した。
濃い黄色の柔らかな断面が食欲を誘う。
「いいんですか」と言いながらも江渡貝は焼き芋を受け取っていた。熱々の芋の熱気を手の中に感じた。ねっとりした断面はよく見ると焼き芋の繊維がひとつひとつ毛羽立って見える。
顎に当たる湯気が暖かい。
「冷めないうちに」
「いただきます」
鶴見は早速焼き芋にかぶりついていた。がぶがぶと豪快に食べている。
江渡貝もつられるように金色の断面に口をつける。あつあつの甘く柔らかなさつまいもはゆっくり舌の上に甘みを広げた。そして、苦いような香ばしいような皮の渋い味を舌先に感じる。
「おいしい」
「うん、美味しい」
んん、と喉が唸った。江渡貝の口の端には焼き芋の繊維が付いてしまっている。それを見つけた鶴見は自身の頬のあたりを指差して江渡貝に言った。
「口の端っこ、お芋が付いているよ」
「あ、本当だ」
江渡貝はどこかむず痒いような気持ちで、口の端についた芋のかけらを手の甲で拭った。
じっと江渡貝の顔を見る鶴見の視線に江渡貝の顔が熱を持つ。普通ならばこんなにジロジロ顔を見られるのは不快な筈だ。けれども、今の江渡貝にはなぜだか心地良く思えた。
はふ、と一息付けば、鶴見と目が合った。もう少しこの時間が続けばいいのに。江渡貝は靴の先に目をやる。
もう少し一緒にいたかったなぁという鶴見の言葉を思い出し、江渡貝は再び心地よいようなむず痒いような気持ちになった。生温いようなぼんやりとした夜だった。

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