ルチスパ まとめ

最後の話に小スカ描写あります。ご注意を。

【恋になりたいアクアリウム】

小さなガラス瓶の中には小魚や青緑色の水草がぷかぷかと浮いている。
スパンダムはその瓶を持ち上げて退屈そうにそれを覗き込んでいた。
「あの……」
この小男に呼び出され、早十五分。現場で潜入、調査、暗殺業務の諜報員と違い、スパンダムは主に事務、情報収集、賄賂等々デスクワークが多い。
ルッチ達が体力勝負なことに比べてスパンダムのそれは時間と情報処理能力との勝負だ。少なくともこんな風にだらだらと瓶の中に生きるアクアリウムを眺めて一日過ごすほど暇な役職ではないはずだ。
いくらなんでも暇じゃぁないでしょう。ルッチは喉まで出かけていた言葉を飲み込んで、物言いたげにスパンダムの方をじっと見た。
ラベンダーカラーのウェーブのかかった髪の毛に不釣り合いな焦茶色のマスク。人並みに体力はあるがルッチから見ればまだ頼りないひ弱な人間だ。
スパンダムはしばらくアクアリウムの小魚を眺めていたかと思えば、ようやく色素の薄い瞳をルッチへと移した。
急な視点変更。ルッチ自身は六式使い故にそれ以上の姿勢変更も攻撃も経験してきているはずなのに、スパンダムの視線に居心地の悪さを感じた。
なんてことは無い、貧弱な馬鹿なただの上司だというだけなのに。
スパンダムの手中にあるアクアリウムは斜めになっており、瓶の中は砂で濁り始めている。
不注意な小男を見返すようにルッチも鋭い目をスパンダムへと返せば互いの視線がかち合う、がそれと同時にスパンダムの手中からガラス瓶が抜け落ちる。
「剃」
こんなうっかりした男に飼われる小魚達に同情すると同時にルッチの身体はそちらへと動いていた。
「うひゃぁぁっ、あ……!」
スパンダムの手は明後日な方向に瓶を拾おうと突き出されており、酷く間抜けな形のまま停止していた。
一方でルッチは身を乗り出し過ぎて椅子から滑り落ちそうなスパンダムの身を抱きしめるようにして拾い上げ、空いた片手でアクアリウムを掴んでいた。
「あなたは本当に」
ルッチは呆れたように言うと、腕の中のスパンダムの頭はしゅんと項垂れた。淹れたての熱い珈琲を一々落とすのが特技とでも言わんばかりのこの男にこんなものを渡したのは一体誰なのか。
もっとも、アクアリウムなんて、凶悪な部下と武器を携えたスパンダムには似合わない。
諦めたようにルッチはため息をついた。
「ルッチ、見てみろ」
スパンダムは先程までの慌てぶりは何処へやら。気分良さげにルッチを見上げた。女子供のように抱き上げられた体勢のくせに態度だけは大きい。この男はどこまでもルッチの神経を逆撫でしていく。
そもそも良い大人がこんな贈り物を眺めて楽しそうにしていたのかと思えば妙に腹の奥底が落ち着かない。怒りとも憎しみとも違う感情はどこから湧き出てくるものなのだろう。
「何ですか」
声に滲む苛立ちも隠さずにルッチはスパンダムの指差すガラス瓶に目をやった。一寸前の騒動で濁った瓶の中には小さく、食用にすら出来そうにないやたら鮮やかな色味の魚が泳いでいる。
「綺麗だな」
濁った水中で忙しなく泳ぐ小魚を指しているのだろう。小魚を眺めたところで気持ちが動くことはないがルッチは相槌をうつ。
「あぁ……そうですね。ところでおれに何の用事ですか」
おざなりな返答をし、ところで、とルッチは切り返した。まるで自分が好きなら他人までがその小瓶に興味があるような物言い。どこまでも自分中心な考え方だ。
「用事は……特にねぇよ。ただ、単純にネコ科のお前はこういうのに興味ないか気になったってだけだ。……その様子だと興味ねぇよな、まぁそうだよな!」
そう言うと、スパンダムは急にワハハハと白けた空気を笑い飛ばした。ルッチもそれに合わせるようにクク、と口元を歪めて笑うが目元は一切動いていない。
「ネコ科といっても、ネコネコの実を食べた人間というだけですよ」
どちらの方が猫だ、と目の前の紫色の猫っ毛を眺める。触れて首筋をひと噛みしたら、無力なこの人は死ぬのだろうか。ぺろりとルッチは自身の唇を舐め、筋張った歳相応の首回りを眺めた。
「そうか、デカイ猫みたいなもんだと思っていたが」
スパンダムは体勢を整えて、ルッチから小瓶を取り返すと上機嫌に頭を揺らした。
「まぁ、目の前を動き回られると噛み付きたくなるっていうのは本能に組み込まれたかもしれません」
「ぼがっ!?」
ぽすっ、とルッチはスパンダムの紫の柔らかな髪の毛に顔を埋めた。あの象もそうしていたが、思いの外コシのない……柔らかな髪の毛が頬にくすぐったい。
「か、噛み付くなよ……」
貧相な顔付きで懇願されても噛みつかない保証はできない。そもそもここは豹の能力を有した男の腕の中である。
やすやすとそんな所に収まっているお前が悪い、とルッチは思う。噛み付いて泣き叫ぶまで身体を舐め尽してやりたいとすら思……ったところでルッチははっと我に返った。肩にスパンダムの手がかかっており、行き場を無くしたハットリが心配そうに小首を傾げて対面した机の上からルッチの様子を心配そうに見守っている。
「噛み付きませんけど」
ほんのり香る整髪料に意識を引き戻されながらルッチは歯切れ悪く答えた。まさか噛み付きたいと思っていたなんて認めたくない。ただ噛み付くなんて、殺しを伴わないただの戯れ合いだ。
それにしても、とルッチはもう一度目の前のスパンダムの頭に鼻先を埋めた。こんな行為こそ無意味だとルッチは思う。
こんなくしゃくしゃの取り乱したような髪型でも整えているという事実をからかって、歳上の単細胞な男の反応を見てみたいとも思ってしまう。
まるで、好意を寄せている少女に悪戯をしかける子供のような思想だ、とルッチは自身の妄想に眉根を寄せた。
しかし、どうしてそんなおぞましい想像に? ばっと、ルッチは勢いよく顔を上げた。その瞳はおどろいた猫のように大きく見開かれている。
「どうした?」
「いえ、なんでもありません」
どっ、どっ、どっと脈拍が狂ったリズムを刻んでいる。冷静になれ、とルッチは自分自身に言い聞かせる。
しかし、下を向けばスパンダムが怪訝そうにルッチの様子をうかがっていた。淡い瞳と目が合えば途端に気恥ずかしくなる。
「あ……」
するり、とルッチの手の中から小魚の泳ぐアクアリウムが滑っていった。
しかし、ぱしっとスパンダムの手がそれを捉える。まさか、鈍臭いこの人が瓶を捕まえるなんて、とルッチは驚いた顔でスパンダムを見た。
「お前がぼんやりするなんて珍しいな!」
ニィィとスパンダムは笑いながらアクアリウムを机の上に戻した。
ルッチも思い出したかのように、ルッチの腹に背中を預けるスパンダムを身体の上から除けて体勢を整えた。
小脇に抱えた荷物でも置くような扱いをしたにもかかわらず、小瓶を持ったスパンダムは上機嫌に歪んだ笑みを浮かべていた。
たかだか小瓶を落とさなかった程度で機嫌よく笑っている男の顔を見ていると、胸の奥にもやもやしたわだかまりのようなものが湧きあがってくるのを感じた。
そもそも、今は用事があって呼びつけたのではないだろうか。もしもその用事がくだらないアクアリウムを自慢するだけであれば、この後行き場のない苛立ちにさいなまされることになる。
「ところで長官、今日は何事ですか?」
「あ、あぁ、そうだったよな」
スパンダムは両手で机の上の書類を掻き集め、その中からいくつか紙束を取り出した。
「ほれ、これだ」
ルッチは乱雑に投げられた書類を受け止めると中身をぱらぱらと眺める。
「監視、ですか?」
「そうだ。」
行き先はどうやら海沿いの小さな地方都市。監視先の施設はこれまた古くこじんまりとした水族館だった。
こんな小さな任務先ならばCP9を使わずともこなせるはずだが、わざわざCP9それも歴代最強の男をご指名ということはそれなりの任務なのだろう。
「まぁ、やる事はおれの護衛だよ」
なんでわざわざおれをご指名で?とルッチは聞こうとしたが、それより前にスパンダムは話し始めた。
「まぁ、なんでわざわざそんなど田舎におれたちがって思っているだろうが、今回はちょっとした事情があってな」
スパンダムは悪人よろしく毒気のある嫌な笑みをルッチに向けた。なんだと思う? という言葉の奥底にはスパンダムの悪趣味な野望が見え隠れしている。
どうせろくでもないことなのだろう。黙ってその場に立っていると、スパンダムの黒く縁取られた瞳が三日月を逆さまにしたような形に歪んだ。
「見つかったらしいぜ、悪魔の実」
そういうことか、とルッチは悟った。ある意味での危険物を見つけたかもしれないから輸送の護衛をしろという任務らしい。平和な任務に見せかけておいて、物騒な案件を寄越す。相変わらずの子悪党振りには呆れるが、CP9の長官としては至極まともな思考なのかもしれない。
「これでまた、おれの部下共は強くなる!歴代最強のCP9を作り上げたおれ様のお陰でな!」
言っている内容は物騒だが、おもちゃの軍隊を強くして喜ぶ子供のような反応に内心苦笑してしまう。
ワハハと高笑いする男に構わず、ルッチは報告書に目を落とした。特に変わった記載はないはずだ。
「あの」
しかし、一点気になる記述が目に入る。
「施設周りの治安が良くないようですね」
「そうだなぁ。海賊になりかけのゴロツキが集まっているらしい。まぁ、たかだか海賊のなりかけが数匹ならそう気にするもんでもねぇだろ」
いざって時はお前もいるしな、とスパンダムは再び笑った。
「わかりました」
任務であれば黙って従うだけだ。バサバサとルッチの肩に止まったハットリもルッチに同調した、という意味で白い首を縦に振った。
「出発は明日だ、よろしくな」

「旅立ちに相応しい朝だ」
薄青く晴れた空。スパンダムは仰け反るように空を見上げたかと思えばちらりとルッチを盗み見た。
何か発言しろということだろうか。
「あぁ、そうですね」
ルッチの肩の上で相棒ハットリは心地良さそうに喉をクルクル鳴らしている。確かに青空を吹き抜ける風が心地いい。
「それにしても」
ルッチはスパンダムの格好を眺めながら言葉を続けた。
「今日の服装はいつもと雰囲気が違いますね」
いつもならば、柄の入ったシャツに黒いベストと黒い細身のパンツスタイルだが、今日は明るいベージュのパンツ、頭には麻素材の帽子をかぶっている。変な柄の入った気の抜けたTシャツが場の雰囲気を間抜けなものにしている。
「まぁ、いつもみてぇに真っ黒よりも、たまにはこういう服装も良いだろ」
一方でルッチはいつも通りに黒いジャケットに黒いシャツとパンツを合わせいる。シルクハットまで真っ黒だ。
「そうですね」
他人の服装には興味がない。ルッチは失礼でない程度に気の無い返事を返した。
「行き先は観光地だしな!」
何故そういう事を先に言わないんだ。もっとも、今回の任務は潜入捜査ではなく、変装の必要性は迫られていない。
困る事はないが、行き先が観光地であればこのようなかしこまった格好ではやや目立つのではないだろうか。
「目立つが、はぐれたときに見つけやすくてちょうどいいな」
しかし、スパンダムはそんなことは杞憂だ、といわんばかりに豪快に笑い飛ばした。
せめてハットリだけれもラフな格好をさせてやろうか。ルッチはそっとハットリのシルクハットをストローハットに差し替える。ハットリはルッチの肩を離れると、喜びを表すようにその周りを一周旋回し、再びルッチの肩に止まり、ポッポーと一言鳴いた。

エニエスロビー発の海列車。すでに手配済みの乗車券を持ち、電車の到着を待つ。エニエスロビーで下車する人間は少ない。ここに降り立つのが許されているのは司法の塔の関係者もしくは罪人くらいである。
暗い表情で降り立つ人間を横目で見送って、スパンダムに続き、ルッチは列車へ乗り込んだ。

無意識にルッチはスパンダムを窓際の景色の見えやすい位置に座らせ、ルッチはそれに向かい合うようにして座った。相棒の白い生き物は窓の外に興味があるようで、ルッチの肩から首を長くしたり傾げたりして、窓の外を眺めていた。一方でスパンダムは一瞬外を見たかと思えば、鞄から取り出した観光ガイドの本をぼんやりと眺め始めた。
「あの、長官……」
ルッチの声に批難の色が浮かんでいる。しかしスパンダムはお気楽な仕草で隣に座るルッチに身を近づけると、本を差し出した。
「仕事なのに何やってるんですか……だろ?」
ご名答!と思いながらルッチは静かに本の内容を目で追う。
「ここだ、これから向かう場所くらい確認しておけ」
スパンダムの開いたページには昨日彼が言っていた施設だろう。砂浜を連想させる色使いの建物が紹介されていた。
雑誌の記事には家族や恋人同士でおすすめ、といった紹介文が楽しげに踊っており、思わずルッチは眉をひそめた。
「Numa’s村?」
「あぁ、ヌーマス村だ。今の時期は観光客が押し寄せるバカンスシーズン真っ盛りな小さな島さ」
がははと凶悪な顔で意味なく笑うスパンダムにルッチの眉間のしわはさらに深くなる。
「そんなに嫌そうな顔をするなよ」
確かに殺したりする可能性は低いけどよ……とスパンダムは物騒な事を小声で呟いて本に顔を埋めた。少しだけ、その動作にぎくり、とルッチの心臓が走る。
「わ、かってます」
一瞬声が上擦ったが誤差の範囲内だ。一々苛々していては簡単な任務に支障をきたすかもしれない。ルッチは心臓を落ち着かせながら差し出された本を受け取った。
ポッポーと水列車が陽気な声を上げる。それに合わせるようにハットリも小さく喉を鳴らす。
ゆっくりと波の音を背景に列車は前に進んでいく。波の影響でやや左右に揺れるもののかたかたと規則的に揺られながらルッチはスパンダムから受け取った本に目を向けた。
本の内容は、これから向かう島の名物やレストランがずらずらと紹介されている。どうやら刺繍した布製品で有名な島のようだ。
観光客を装う必要もないため、今回の任務にはあまり関係のない情報だとルッチは何気なくその島周辺の地図に目を通した。
観光客でごった返すような平和な島に本当に、悪魔の実やら怪しげな取引なんて行われているのだろうか。
地図を見れば確かに危険人物の目撃情報があった場所とも繋がっている。ただし、この一帯は船大工が多く暮らしており、水の都と呼ばれるウォーターセブンを中心に観光地として近年活性化しており、様々な場所から人が集まってきている。
「この島のあたりには……」
話し始めたルッチだが、目の前の男の様子を見て言葉を止めた。
「……」
紫頭が前後に揺らいでいる。早朝からの外出に加え、海列車の規則的な揺れは眠気を誘う。
賄賂にコネに権力に。真っ黒な言葉に真っ黒な部下たちを引き連れた男の寝顔は、ルッチが考えていたものより随分と穏やかであった。
スパンダムの身体の動きに合わせて揺れ動く紫色の癖毛に心を囚われる。動くものに魅かれるのは、ゾオン系の能力者だからだろうか。ルッチは考えるよりも先に手を差し出して、スパンダムの柔らかな髪に触れていた。
それを人差し指に絡めれば、ルッチの指に淡いパープルの指輪ができた。力を緩め、開放すれば滑らかな感触がルッチの指先をなぞりながら解けていった。
ふぅ、とため息をついたところでルッチはようやく自分が息を止めていたことに気がついた。彼はまだ起きていないな、とスパンダムの目元を見る。
時折睫毛が震えているが、すっかり彼の意識は夢の中にいるようだ。
すぅ、と吐息が聴こえる。彼の頬に触れそうになったところでルッチは我に返り、手を止めた。焦がした砂糖のような喉の奥にいつまでも残る甘さがざらざらした感情となり戸惑いを生む。
人の気も知らないで呑気に寝こけるスパンダムに心臓が騒ぎ出す。春の新緑の匂いを嗅いだ時にも似ている。
くく、と隣にいたハットリが喉を鳴らした。新たな感情の芽生えに戸惑う相棒を心配しているのだろう。首を傾げて見つめてくる瞳を覗いたところで、ルッチは列車の座席に座り直した。
座席の腕置きに頬杖をついて夢の中を彷徨うスパンダムは間抜けな顔をしている。半分開いた口から涎を垂らし、むにゃむにゃと口元を動かしている。
「んぁ……ルッチ」
急に名前を呼ばれ、ルッチは目を丸くした。寝言で呼ばれたという事は彼はルッチのことを夢見ているのだろうか。いいや、きっと碌でもない夢だ。
じろ、とスパンダムの緩い口元を眺めれば、かくん、と彼の頭は大きく揺れ、腕置きから彼の肘が外れる。
「うぁっ!?」
バランスを失ったスパンダムはそのまま上体を前に崩し、その衝撃で覚醒した。
「もしかして、おれ、寝ていたか?」
スパンダムは自身を指差しながらルッチの顔を覗いた。
「寝ていましたね」
近いな、とルッチは上体をスパンダムから離しつつさらりと答える。
「ん、悪い」
金と権力に踊らされているような男だが、矯正具のせいなのかワーカーホリック故なのか定かではないが、いつも顔色は優れない。
「お疲れなんですね、そういえば」
ルッチは喉元まで出かけていた言葉を飲み込んだ。こんなことわざわざ聞かなくても良いだろう。そう思ったからだ。
「なんだ、かしこまって」
スパンダムはなんだよ、ともう一度ルッチをじろりと見つめる。一度興味を持てばなかなか引かない男なのは知っているがここで口に出しても何の利益にもならない、が、損失も生まないだろう。
スパンダムと話すこと自体が面倒臭いと、思いながらもルッチは口を開いた。
「寝言でおれの名前を呼んでいたので」
めんどくさいな、とため息を吐きながら答えると、スパンダムはマスクの奥の目を見開いて素っ頓狂な声をあげた。
「んあ!!よ、呼んでなんていねぇよ!」
想定外な反応にルッチは目をむいた。
何か後ろめたいことでもあるのだろうか。夢の中でおれを殺そうとしていたとかそんなものだろう。アタフタしているスパンダムにルッチは言葉をかけた。
「夢の中でも仕事の事を考えていたのか、と思いまして」
そう言うと、スパンダムは確かにそうだな、と言わんばかりに顎に手を当てるとうなづいた。
「あ、仕事……そうだな、あぁ、仕事の夢だ。仕事の夢を見ていたんだ」
はは、と何かを取り繕うように意味のない笑いを浮かべスパンダムは口を噤んだ。
いつもであれば、もう少し騒がしいはずのスパンダムが予想外にも静かに座席に座っており、ルッチはひとり首を傾げる。
はて、乗り物酔いだろうか。
騒がしい男が黙っているのだから、良いじゃないか。心の表面ではそう取り繕うが胸の奥がざわめいている。
恋人と一度は行きたい浜辺と夕焼けスポット。
そんな特集記事の見出しを視界の端に入れながら、ルッチは窓の外を眺める。
きらきらと太陽の日差しを浴びた海が輝き、潮風は穏やかで海の水面も静かに揺らいでいた。

続?

たった五年だけ。
ルッチはそう自分自身に言い聞かせた。五年の潜入捜査さえ終われば今のこの仕事の技術なんてものは必要ない。
この少しの間にルッチはカクの順応性の高さ、そして器用さに驚いていた。そしてその性質はすぐにガレーラカンパニーに馴染み、カクをあっというまにW7の船大工に仕立てあげた。この性質はカクの生まれもった才能なんだろう、ルッチは肩のハットリの喉を撫でながら考える。カクとは血縁のある間柄ではないものの、随分と幼い頃からルッチは成長を見てきた。そのため、カクはルッチにとって仕事仲間でもあるが弟のような存在でもあった。
その成長は嬉しいものでもあったが、いつか自分を追い抜いて、いつか自分を追いてどこか遠い場所に行ってしまうのではないかという不安がつねに付き纏った。

こルッチとカクとパウリーの話

ルッチが胸に抱いていた不安はだんだんと目に見える形で現れる始めた。
それは幼い子供が一人歩きができるように、そして親元を離れるような感覚でもあった。この不安を何と呼んで良いのか解らないまま、ルッチはもやもやとした毎日を送っていた。

二日酔いで痛む頭を抱えながらルッチは出勤した。ガレーラの大工達と飲み会はたまに行くこともあるが二日酔いとして体に残るほど飲むことはない。昨晩は一人・・・とはいってもハットリも席を共にしていたわけだが、自宅で飲んでいた。普段ならブルーノの所でパウリーやカクとともに酒を飲むのだが、昨日はそんな気分ではなかった。特にカクと、大工仲間とは楽しく話しをできる自信がなかった。
苛立ちに任せて酔い潰れるまで酒を飲んだからだろう。気分の悪さは晴れることなく、朝から身体に重くへばり付く。
ソファーにもたれ掛かったまま寝ていたため、身体の節々も痛む。あぁ、これが二日酔いというものか。ルッチは水を飲みながら思った。
出勤すると今日もいつもどうりに船大工たちがそれぞれの仕事を始めている。いつもどうり、昨日のうちに気持ちの整理が出来なかったためだろう。そのいつもどうりの日常にルッチは馴染めるのだろうか、と不安になる。
気分を切り替えねば、押し寄せる不安と、二日酔いの気分の悪さを吹き飛ばすようにルッチは明るい声を腹からだす。
それに合わせるようにハットリもぱたぱたと動き出した。
「おはようだっぽー!」
ハットリの手羽がはたはたしている。ルッチのそれはすべてが嘘だと分かっていてもカクはその挨拶に返事をする。
「おはようさん」
少しルッチに近づいてカクは違和感を感じる。違和感、というよりも不快な程の酒臭さである。
昨日は一緒に酒を飲んでいない。同じドッグで顔を合わせる船大工達と昨日はカクと一緒にブルーノの所で酒を飲んだり、食事をともにしていた。ということはルッチは昨日は一人、もしくは他の誰かと酒を飲んでいたということになる。
そういえば、とカクは昨日のことを思い出した。昨日は珍しく酒やらギャンブルやらを好きなことで有名なパウリーを見かけなかった。もしかしたらルッチはパウリーと一緒にいたのではないかと考えたのだ。
「ルッチ……」
「……?」
名前だけ呼びカクは黙りこんだ。その様子にルッチとその相棒は同時に首を傾げる。
カクは聞こうと胸に浮かんだ疑問を打ち消した。もしかして、昨日はパウリーと飲んでいたのか?そう考えたのだ。
しかし、いくら酒豪なパウリーと飲んでいてもルッチは二日酔いを起こすまで飲むような男ではないし。でも二日酔いを起こすまで飲んでいたのはなんでだ、とカクの思考はルッチと離れてからもそこから離れることはできなかった。

一方でルッチは、カクが硬い表情でいるのを不思議に思った。しかし、これからまた慌ただしい一日が始まる。これ以上カクといるのもなんとなく居心地が悪かった。なによりもルッチはカクと比べ、この場所に馴染むのに遅れをとっていると感じている。一刻も早く慣れなければ。早く標的に近づかなければと焦りを感じていた。
幸いなことにその標的に近づくための焦りを船大工として成長したい焦りと周りは勘違いしていたし、なによりも体格の良さや、タフな体力を周りの船大工は評価していた。それ故にルッチが一番ドッグの職長パウリーの目に止まるのも遅くはなかった。

ガレーラにやたら器用な鼻の長い新人と、体格の良いこちらも船大工としての才能を秘めていそうな新人が入ったという噂で持ち切りだった。黒いシルクハット。白い鳩を肩に乗せた腹話術のおかしな男。
パウリーは造船所の真ん中でそんな新人を観察していた。
ルッチとかいうシルクハットの男はカクという鼻の長い人物と話をしていた同じ時期に入ってきたから親しいのだろうか。煙草をふかしながらパウリーはぼうっと観察する。しかし、それにしては少しよそよそしい。なんだか関係のよく解らない二人組だ、と煙草を傍らの石版に押し付けながら考えた。

ルッチとカクがそれぞれの仕事につく。ぼけっと眺めているパウリーは一瞬ルッチと視線が合ってしまった気がした。
こんなに遠い場所である、気のせいだろう。少し、少しだけ背筋が凍った。パウリーはその感覚をうやむやにするように煙草を取り出した。

せいたかのっぽの黒いやつ。
パウリーは勤務中ではあったが、ルッチに話しかけた。
やはりその男は口を開かず、代わりに鳩が話しをしているように演じた。
「ポッポー、パウリーがルッチに用事みたいだっぽ!」
馬鹿にしているのだろうか、パウリーはそう思ったのだが、これがこの男のコミュニケーションらしい。仲間達に聞いてみたが、この腹話術はプライベートでもそのままなのだそうだ。
「その、」
パウリーは次の言葉を続けたかったのだが、なにせ用事もなく話しかけたのだ。言葉につまってしまった。
「用事がないならルッチは仕事に戻るぞ」
ハットリはそういった。主人が表情をたいして変えずにいるその横で、愛想良く演じる白い生き物は酷く愛嬌がある。
愛嬌のある鳩に向かいパウリーは軽く手を振る。それを理解したのか、そういう調教をうけているのか、鳩はパウリーに手を振り返した。パウリーも背を向けて自分の持ち場に戻ろうとした。
「今日は朝からこんなのばかりだ。」
先程の声より幾分か愛想のない声が聞こえた。それは確かに鳩の声だったのだが僅かに不安の色を持ったものだった。
振り返ったパウリーがみたものは後ろ姿のハットリと、そのまま手を振るルッチだった。

[newpage]

任務外報告捏造話
CP9

疲労と身体の損傷に寄って重く朦朧とした意識の中にいた。
うっすらと光を感じた。ここは海列車の中だろうか。揺れる。
心地良い揺れと暖かいそこは、重いカクの瞼を引き下ろすには十分な環境だ。
持ち上げられた腕とその暖かさ。しかし脚に感じる塩水の冷たさにカクは目を覚ました。
目を覚まし、始めに見えたのは黒いみつあみのように結わえた黒髪だった。いつも何かしら反発していたジャブラにいつの間にかおぶわれていたらしい。抵抗をしようという気持ちは不思議と起こらなかった。それとともにカクは今の自分達の状況を少しずつ理解する。
海列車には乗っていなかったのか。カクは少し安堵した。エニエスロビーに帰るのだろうか。そう思い、ジャブラの向かう方角を見た。海、線路の上を辿る。エニエスロビーの影もあの船大工のいる街も見えない。
ガレーラカンパニーの襲撃事件、それともW7に潜入捜査し始めた時からかもしれない。思いだせば思い出すほどそれらの五年間は夢のように感じた。列車のように揺れる背中のせいだからだろうか。不規則なあしどりが先程から夢のように過去の線路も辿った。
それは余りに不規則で、W7に来たばかりの頃も、目の前にぐったりと意識を失っているルッチも、かつての故郷での日々もオーバーラップして記憶がカクの頭の中に映し出された。
ジャブラとブルーノが会話をしていた。その会話の中である単語を言った瞬間、カクが指をさした。
無意識になのかもしれない、カクの指先が前方を差した。その指先を見たジャブラは驚いたように差された先の地名を口にする。その地名はこれから向かう場所だった。確認するかの如くジャブラが再びその名前を口にするとカクの頭が、肩の上で上下した。これは肯定の意味なのだろう。
ただ長い線路の上を歩いていると流石に疲れで皆、足どりだけではなく口までもが重くなる。
暇だなぁ、とジャブラは思う。ちょうど自分の背中に身体を預ける仲間に話すべくジャブラは振り返る。
「なぁ、カク」
しかし呼びかけに返事はなく、その代わりに聞こえてくるのは穏やかな寝息だった。
つまらない、なによりも歩くのに飽きた疲れた。体力があるといえども皆の表情も暗い。タイミング良く、大きな岩が波の上に飛び出ていた。一行は一端休みにしよう、とその岩を登った。
カクの身体を岩肌に乗せるとその揺れと、岩の固さに目を開けた。しかしまだ覚醒しきっていないらしい。ジャブラから落ちたとでも考えたのだろう。両手を緩く動かして捕まっていた筈の肩を探した。横にいたカリファがカクの髪を掬うと、カクは安心したかのように眠りに落ちた。
そんな様子のカクと、まったく目覚める様子のないルッチを見てカリファは眉を寄せ、眼鏡の位置を修正した。
「セクハラだわ」
カリファは視点を変えずに言った。しかし、彼女の台詞には刺々しさはなく慈愛に満ちた言い方だった。視線の先の人物たちが原因なのだろう。カリファの頭をジャブラの手が覆った。決して嫌がる様子はなく、カリファはその手を甘受するようだったが、足元を見詰めたまま、こんなのセクハラよ、と言った。

ルチスパ・おもらし注意

あのぅ、と小さな声がルッチを呼んだ。振り向けば、そこにいるのは元上官であり、現在はルッチの部下にあたるスパンダムが申し訳なさげに立っていた。
「なんだ?」
ぶっきらぼうに言えば、ルッチの予想の範囲内でびくり、とスパンダムは肩をすくめた。怯えたような媚びるような表情が面白い。
「あのぅ、ダンナ……」
何を勿体ぶっているのだろう。苛立ちを隠しもせずにルッチはだから、なんだ?と低い声を唸らせた。
「と……トイレ行ってきても良いですか?」
先ほどからずっと内股気味で落ち着きがなかったのはそれが理由だったのか。餓鬼じゃあるまいしそんなもの許可を取らずに行けば良い。
じゃぁ、さっさと行け……と言おうとしたところでルッチの脳裏に一つだけ邪な妄想がぱっと浮かんだ。
「だ……だめだ」
もじもじと落ち着きのないスパンダムに向かいルッチはそう言い放った。
「ダンナ、その、おれ、本当に」
そもそも切羽詰まっているわりに、上下関係だとか、今後の出世だのが見え隠れするその媚びるような呼び方も気に食わない。
「それくらい我慢できるだろ」
冷たい言葉を浴びせれば、スパンダムの両手は何かを堪えるように強く自身の太もものあたりを押さえていた。
「が、がまん……します」
健気に我慢を選んだのか。歯向かって抵抗して喚き立てる彼を想像していたのに。想像と違うスパンダムに苛立ちが募る。
ゆっくりとルッチはスパンダムに向かうとその手でスパンダムの腹に触れようとした。
「だ、だめです……」
つっ、と指先で腹をなぞれば、スパンダムの表情が歪む。
「だんな……やめてくだ……」
一方でルッチはにぃ、と口角を上げて指銃でも打ち込むかのような動作でスパンダムの下腹部をゆっくりと押した。
スパンダムは大きく瞬きをし、ひ、と息を吸い込んだ。
「や……やだ、ルッチ……やめろ……」
スパンダムは股間を両手で押さえたまま後退りをした。ルッチは満足げな表情を浮かべ、困り顔のスパンダムに言った。
「冗談だ、さっさと行け」
しかし、スパンダムはその場から動けずにいた。小さなうめき声をあげて涙目のまま停止していた。
「あ……あ、ぁ、」
床に視点を移せば、水玉が数滴溢れていた。足元からゆっくりと視線を上にずらしていけば、じわりじわりと足の間を始点に白いズボンが濡れ始めていた。
今更便所へ行って良いと言われても、スパンダムの小便はもう間に合っていない。
足で床を踏みしめて両手で股間を押さえたところで一度漏れ出た水滴は元には戻らない。くぅ、と喉の奥が鳴る。
少しずつの排出の喜びに身体が大袈裟なほど打ち震えた。生温いものがほわっと尻を伝い、ズボンを派手に濡らした。
もう間に合わせることは不可能だ。諦めの気持ちに身体は白旗を上げる。足を伝っていただけの小水は尿道をこじ開けて下着の中で氾濫を起こし股間を押さえる手から零れ落ちた。ずっと待ち望んでいた開放的な刺激に、恥ずかしいことなのに気持ちいいとも思ってしまう。
あぁっと間抜けな声が漏れた。いい大人が失禁してしまっていることに対して蔑みの視線を感じた。顔を上げるべきだろうか。しかしまだ、身体の中の水は出て行っている最中で恥ずかしい水滴がぴちゃぴちゃと音を立てて床に広がっている。我慢に我慢を続けたそれは一気に出にくいらしい、もどかしい快感に足が動いてしまう。
「おい」
ルッチの声に呼ばれれば反射的にそちらに顔を上げてしまう。小水を垂れ流しながら目を合わせれば胸の奥がじわっと羞恥に熱く燃えた。
「だ」
ダンナ、と呼ぶ前にスパンダムは自分自身の身体が地面から離れるのを感じた。
まだ漏らしている途中だが、ルッチはスパンダムを横抱きしその額にキスをした。
「る、ルッチぃ?!」
ぱちゃぱちゃと小便を撒き散らしながら顔にキスをされ、スパンダムは思わずルッチの名を叫ぶ。
「やっと止まったか……」
呆れたような声色でルッチはスパンダムの小便で汚れてしまった自身の白いスーツを眺める。
ルッチの腕の中で、スパンダムは怯えたように縮こまっていた。まだ股間を握りしめて子供のような涙でぐしゃぐしゃの顔がルッチを見上げた。
「ごめんなさ……い、だん……」
「二人きりの時にダンナは禁止だ」
名前で呼べ、とルッチは続けると、再びスパンダムに顔を接近させた。
ルッチの長い髪がスパンダムの顔を覆い隠す。ぽ、と二人の周りの温度が一瞬上がって静寂が訪れた。
「さぁ、早く逃げてしまいますか、元長官?」
ぽぽぽ、と口付けに頬を染めるスパンダムにルッチは悪戯っ子のような笑みを見せると、そのまま空中を蹴り上げる。
「ルッチ!」
横抱きにされたままの月歩に、スパンダムの身体がふわりと揺らぐ。ぎゃぁ、とスパンダムは鼻水を垂らしてルッチにしがみつく。
「なんですか、長官?」
いや、元長官ですかね。にやにやとルッチはスパンダムの顔を覗き込む。青白い月明かりに照らされてもなお、二人の頬はほんのりと上気して赤く染まっている。
「それとも……」
ルッチは月歩を続けながらもう一度スパンダムに唇を寄せた。

おわり

[newpage]

オレンジ色のデコボコした球体が視界に入ってきた。
この部屋に薄紅色の象がいる時点で既に普通の部屋という概念からは逸脱しているため、そう気にすることではない。
ただ、今気にすべきことは、器用さは人並みだとしてもおそろしく手元が緩い上官が刃物を片手にそのオレンジ色の物をどうにかしようとしている事柄である。
止めるべきか、放っておくか。
目の前に遠慮なく置いてある人の顔を模した緑黄色野菜。
そして、カレンダーを見れば十の月を示している。彼は恐らくハロウィンと呼ばれる行事に使われるジャックオーランタンを作っているのだろう。
用事があるから、と呼ばれたからこちらに出向いたが、まさかかぼちゃを掘るのを手伝えということだろうか。
床に落ちたかぼちゃの種をつつくハットリを眺めながらルッチはこれから予想される阿呆な男の注文に小さくため息をついた。
「用事があるんだ、ルッチ」
ガリガリガリ、とかぼちゃを削る手を止めてスパンダムはようやく口を開いた。
「長官、ジャックオーランタンを作る作業は嫌ですからね」
「そんなこと頼まねぇよ」
ガハハと口を開け、スパンダムは革張りの座椅子に背を預けると伸びをした。
「それに、ジャックオーランタンはもうすでに一つはできてる」
確かにスパンダムの指差す方向にはぽこん、と穴の空いたかぼちゃが置いてあった。
それならば、このかぼちゃを目の前にして次は何を依頼してくるのだろうか。
少なくともスパンダムの手元に書類と思しき物は見当たらないし、疑問に首を傾げても答えは見つからない。
ルッチをちらっと見上げたスパンダムはガリガリとかぼちゃを削る作業を止めて顔を上げた。手元にあるオレンジ色のもの、それを掲げにやっと底意地の悪そうな笑顔を浮かべた。
「あぁ……」
手元にあったのはかぼちゃで作った平たい面だった。日頃ルッチが使っているもののジャックオーランタン版である。
「カクたちは自分で作ってたがお前はその場にいなかったからおれが直々に作ってやったぞ、あと少しで完成だ」
胸を張って言われれば文句をいう気分も失せてくる。まったくと呆れ半分にため息をつくが、あと少しで終わりそうなスパンダムの作業を見ていることにした。
「本当はお前が来る時間までに完成する予定だったんだがな」
ドヤ顔で言うスパンダムは手元も見ずに刃物を持つ手を進めたが、その手がつるり、と滑った。
身に染み付いた瞬発力でルッチはスパンダムの手元と刃物を取り上げようとしたが、一歩遅かった。
「っ……痛ってぇ!」
ルッチの手はスパンダムの革手袋に包まれた手首を掴むのには成功したが、刃物はグローブを貫通し、スパンダムの指先の表皮を破いたところだった。
痛い痛いと喚きながら慌ててスパンダムは手袋を外す。頑丈な手袋が守ってくれたからだろう、傷は浅く少し血が滲んでいる程度だった。
涙目で喚くスパンダムに対してルッチは呆れたようにため息をつく。
仕方ないな、と独り言をこぼし、ハンカチを取り出すと、後ろからスパンダムを押さえるようにしてハンカチでスパンダムの指先を包み込んだ。
「ひぎゃ!」
「長官」
ルッチが低い声で囁けばルッチの吐息がスパンダムの耳元を掠め、腕の中のスパンダムの背筋が震えた。
「大人しくしていてください、止血ができない」
ぞく、とスパンダムの腹の奥底にルッチの声が響く。
ルッチに抱きしめられる体勢で混乱しているのだろう、スパンダムは目を白黒させたまま腕をばたつかせる。
「も、もう大丈夫だから、離せ」
ルッチの目の前で紫の髪がふわふわと揺れた。ちらちら見える、隠れていない方の頬がほんのりと赤く染まっている。
「まだです」
「もう血は止まっただろ」
スパンダムの言う通り、指先の止血は完了していた。
深い傷ではなかったため、痛みも引いているのだろう。先ほどのように喚くのは止まったが、今度はぶつぶつと文句を言いだした。
「そんな、過保護にしなくても、この程度の傷ならおれは平気なんだ。だから、その、あまりそうされると……」
 文句、というよりは急に抱きしめられたことに対して恥ずかしがっているのだろう。
照れるスパンダムが面白くて、ルッチはスパンダムの髪の毛に顔を埋めるようにして首筋に唇を寄せた。
「る、ルッチ、ダメだ……あっ!」
ルッチはそのまま、スパンダムの素肌に舌を這わせ……。
ようとしたが、それは叶わなかった。
ルッチの腕の中から逃れようともぞもぞ動いていたスパンダムであったが、持ち前の運の悪さからだろう。
地面に置いていた小ぶりなかぼちゃに足をひっかけてルッチもろともその場に転んでしまった。
起き上がろうとルッチが目を開けば、幸か不幸か、スパンダムを組み敷くような体勢になっていた。
「ルッチ……、ま、まて!」
待ってなどいられない。
スパンダムはルッチに押し倒されるような姿勢に目を白黒させながら、手を突っぱねてルッチから逃げ出そうとする。

しかし、撫でるようにスパンダムの腕に手を添えれば、すぐにスパンダムの腕の力は抜けて、おとなしくルッチに食われる体勢になる。
満更でもないくせに、と真っ赤になって恥ずかしがるスパンダムを抱き締めた。そして、そのままルッチはスパンダムのマスクにキスをした。

おわり

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